ワザップ!フォーラム
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第13話:夜上がりの心拍数(明日を開く)
僕とソラハは爺さんの家に寝泊まりさせて貰うことになった。
以前の疑似世界の様に、一日で帰れたらどれだけ楽だったろうか、と少しこの世界に悪態をついた。
夕食は爺さんが余りモノを調理して出してくれた。
ソラハはまだ元気を取り戻しておらず、爺さんが無理矢理食べさせる形となり、ゆっくりと食べ物を口に運ん
でいた。
——自分の過去を認めたくないのか、僕にその過去を知られたくないのか。
それは解らない。
よく考えればなんてことの無い過去じゃないか——なんて思ってしまった自分がより嫌いになった。
「————ウイ君。」
「何?」
「——今日さ、」
「うん。」
「一緒に寝る?」
なななななにをこの人は仰っているのだ。僕らはまだ他人であって恋人でもましてや友達という関係でもない訳でそういった発言はどう考えても可笑しいと考えられる。確実に可笑しい。そもそも“寝る”とはどういうことか?同じ部屋で寝るのか?——同じ布団で?——それとも——。いや、違うそんな筈は無いのです。そうです。変な妄想はいつも自身を惑わすのです。そうして過ちを繰り返すのです。そうですよね?饗庭葉一さん。——そうだよ、だから勘違いしてはいけない。人はいつだって冷静に構えてなければならないのだ。
一部、別人格が僕に問いかけた様な感覚に襲われながら、僕は咄嗟にソラハになだめる。
「そ、その——そういう、うのは、良くないんじゃない、かな?」
「そう——かな。」
「そうだよ。」
「私とじゃ駄目なのかな。」
とうとう訳が解らなくなって参りました!
「——それって?」
「解らないの?——エッ」
「言わなくて良いっ!」
「駄目?」
心なしか上目遣いでこちらを見ている様な気がする。
僕は落ち着いて、細く息を吐き、深呼吸をして考えをまとめる。
「————なんかソラハ自暴自棄になってないか。」
そう、これが胸につっかえて仕方が無かったのだ。ソラハの眼が虚ろに見えたためである。
——割と落ち着いた口調で言えた自分を誇らしく思う。
ソラハは虚を突かれたかのように体を強張らせ、応える。
「そ、そうかな?」
「自分で気づいてないの?」
「私はただ、したいなって思っただけで。」
中々危ない会話だが、爺さんは入浴中であるため傍聴されている可能性は低い。
「僕にはそれが自暴自棄に見える。」
「——男の人ってもうちょっとアレかと思ってた。」
そう言ったソラハは謎の満面の笑顔を、にぱー、と僕に向ける。
え、これで良かったのか。自暴自棄を指摘して正解だったか。
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結局僕等が一緒に寝ることは無く、別々の部屋で寝ることとなった。
よく馬鹿な物語でありがちな、“あの娘と一緒に寝る”なんて展開は有り得ない。
こっちから願い下げだ。
クーラーが効いていて中々涼しい室内で、ひとり、布団を敷いて横になった。
タオルケットの感触がざらざらと心地よく、直ぐ寝れる予感がした。
が、この時間を活用し、思考を巡らすことにした。
“終セカイ”——戦争、とヤナギが言っていたがどういう概要なのだろう。
内戦か外戦かさえ明瞭でない争い——つまり、終末が来ると言われても信憑性が無い。
ヤナギの発言を信じても良いのだろうか、遊びで僕等を騙していたのではないだろうか。
だがそういった雰囲気は感じられず、彼は真剣だった。
“終セカイ”と、この“現実直視”は、いずれ直結するのだろうか——?
現実直視をする意味を見出せない。
その癖、僕は死ぬことを選べないままだ。
“この直視を辞めたい”と、内心弱音を吐いてみるものの、自殺をすることを僕は選択しなかった。
それは何故か?答えは明快、僕は“生きたい”んだ。
あの異常世界や、この疑似世界に来る前——つまり、現実世界で自殺を試みていた。
ひと気のない場所を探し求め、僕は電車に乗った。
しかし——僕は死ねなかっただろう。
自殺をする自分を演じることで——全てを諦めることを演じることで——世界に甘えるつもりだった。
それは阻まれ、何故かソラハと同時に異常世界に引き連れこまれた。
ソラハ——ソラハは大丈夫だろうかと心配しかけた。
厭くまで他人なのでそこまで気にかける必要は無いだろうと、僕の脳は判断した。
人情さに欠ける脳である。
と、僕の身体は何時の間にか、リビドーに——性的欲求に襲われていた。
中学生ならよくあることだろうが、僕にとっては極めて珍しいことである。
ソラハを思い浮かべただろうか?さっきの会話を思い出したからか——。
妄想の中でソラハと交わろうとしたが、それはあまりにも虚しく感じられ、手を止めた。
幾許かの罪悪感が、茫漠なリビドーを塗り潰した瞬間だった。
「……ぁ。」
特に意味は無い声を出し、僕は寝る体制に入った。
今日を終えよう、嫌でも明日を迎えよう。
今日という世界を閉じ、明日という世界を開こう。
……………………。
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第14話:心臓風船(身体を示せ)
「朝っちゅうやあああああああ!起きるべ小童よおおおおおおおおお!ふううううう!」
朝イチで何故この爺さんはこんなにテンションが高いのか。
昨日は色々と考え事をしすぎて眠れなかった。
よく人は考え事をすると睡魔に襲われるというが、それはきっと嘘だ。
「んん?少年よ、目の下に隈が出来ているぜぇ!」
「……寝れなかったんです。」
「まあ朝は来たしな!もう寝れんな!」
「……。」
「どうした少年、具合でも悪いだか!?」
「……ちょっと黙っててくれませんか。」
「お、恐ろしい顔で見るんじゃなか!」
逃げる様に僕から離れていく。重たい身体をゆっくりと動かし、立ち上がる。
昨日は歩き過ぎたか、足首が筋肉痛の様な痛みを帯びている。
金属疲労の様に、ポロっともげてしまうのではないだろうか?
と、いつも凄惨な情景をイメージしている。
爺さんと初対面の時に、CDを爆音で聴かされた部屋に向かった。
昨日の今日だ、ソラハと何を話そうかと不安になってきた。
当のソラハは既に折りたたみ式の卓袱台に腰をかけて——。
?
「何やってんの。」
「ぬ?」
「それ座る家具?」
「っ!?」
ようやく自分が座っている家具の本質を思い出した様で、慌てて床に座り直す。
お尻をぺたーと床に付けている座り方だが、僕はそれに対し、少しばかり嫌悪感を抱いた。
別に可愛っ子ぶっている訳ではないのだろうが、そうであるように思えてしまう座り方だ。
そんなことを口に出す訳も無く、黙って僕はあぐらをかく。
——蝉が朝から。わしゃわしゃと喚き立てている。
しかし、この雰囲気は。嫌いでないな。と、思ってしまった——。
「あっさごはんはッ!べべべべんとうッ!」
狂気じみた声を上げて三人分の弁当を持ってきた爺さんを見て、疑問が生じた。
「まだ弁当あったんですか。」
「こら買いに行かんでも良かったみたいげやー!」
「骨折り損……。」
「んんんッ?ほらいぞんっ!」
意味が分からないが、僕等は弁当に箸をつけた。
*
「汝等は未だ捜索をなさるのですか。」
「……はい、なんじ?は、いまだそうさくなさります。」
頓狂なノリにソラハがいつもと同じように乗る。
昨晩の自暴自棄ペースは払拭された様に見える。
僕は安心してしまう自分を払拭し、話を切り出す。
「まだ暑いし良いんじゃないですか。陽が落ちかけた時に捜しませんか。」
そう僕が言うと、爺さんはとても困惑した表情を浮かべる。
そうだ、孫娘のことが心配で仕方がないのだ。一刻をも無駄にしたくないのだ。
と、考えるまでもなく、後悔する。
「すいません。」
またも後悔することとなった。
こういう時は一拍置いてから謝るのが常であるが、今のは早すぎた。
「捜しませんか」に食い気味で「すいません」が入ってきた。
「いんや、よかよか。まだ暑いしにゃ。」
「ウ、ウイ君……?」
「それで良いの?」と言いたげな表情でソラハが此方を見ている。
違う、違うんだ。
「と、とにかく行きます。よ。」
話術の無さでこの状況を打破することは出来ないと見え、僕は強制的に爺さんの手を引いた。
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捜索は直ぐに行われた。
昨日、時間の都合上捜すことのできなかった場所を三人で巡っていくが、俄然見当たらない。
幼い少女が遠くへ足を運ぶ可能性は極めて少ないが、可能性は捨てきれない。
範囲を徐々に広げていく形の捜索となった。
アーケード街だったであろう場所に着いた。
店の大半はシャッターを下ろし、薬森市の廃害と良い勝負であろう雰囲気を醸し出している。
「シャッター街も隈なく捜しんしょ!」
依然、元気が空回りしてる感の否めない老人の声により、シャッター街での捜索が始まった。
僕は小汚い路地裏を捜す。室外機に黒猫が座っているその情景は何処か違う世界に見えないこともない。
と、足元に一冊の本が、水溜りに、開かれた状態で落ちていた。半分水溜りに浸かって濡れているため、手に取ろうとは思わない。
ふと疑問に思ったが、昨日、雨は降っていないはずだ。寝ていないから解る。
そんな疑問とは関係なく好奇心はやってくる。僕はしゃがみこんでページを見下ろす。
“終末は神との繋がりで免れる”
どうやらどこぞの宗教本、もしくは聖書だったようだ。宗教に関しての知識は非常に乏しいため、キリスト教か新興宗教かどうかは解らない。
終末——終セカイが連想されたが、当然、筆者は存在を知らないだろう。宗教本や聖書に終末なるものは必須だ、と僕は勝手に思い込んでいる。
宗教の事は、今、とてもどうでも良く感じられたため、僕は立ちあがり、捜索に戻ろうとした。
——風船。
曇った空にひとつの赤い風船が浮かんでいるのが、アーケードの屋根の隙間から見えた。
風船など久方ぶりに見たかもしれない。
そして僕は閃く。
僕はとっさの自分の勘を信じ、風船の浮かぶ、丁度真下を目指し走り出した。
——もしかしたらあの子の風船かもしれない——!
「あっ、ウイ君なんで走ってんの?」
ソラハを横ぎってしまい、声をかけられてしまった。失態。
「ちょっと勘。」
「……え?」
そう言い放って何年ぶりかの全速力で走る。何故か少女を見つけることができる、確信があった。
今朝は爺さんに酷い事を言ってしまった。その発言を消すことが出来ないなら、僕はその罪を消さなければならない。
あの言葉が消せずとも、この罪はまだ消せるはずだ。
アーケードを出た僕は直感のまま突き進む。
あの通路を右に、青信号を渡り、薬局から左に、そして細道を直進。
そして、ついに僕は少女を見つけた。
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「私を捜してたの?」
白い肌、衣服は黒いススで汚れている少女はポリバケツに腰を掛け、怪訝そうにこちらを見ている。
走ったせいか呼吸が上がっているため、整えてから言葉を発する。
「ああ。」
「あのジジイが必死こいてるの?」
ジジイ——孫娘を思いやる爺さんにとって、その呼び名はあまりにも酷だ。
僕はあの爺さんと何の関係も持っていないし、持っていたとしても家族の事情に踏み入ることはしたくない。
よって、呼び名には触れないことにした。
「ああ。」
「…うざい。」
少女のは溜め込んできた言葉を、ようやく放出する。
「うざい。」
「うざいうざいうざいうざいうざい!」
「うざいうざいうざいうざいうざいうざいうざいうざいうざいうざいうざいうざいうざいうざいうざいうざいうざいうざいうざいうざいうざいうざいうざいうざいうざいうざいうざいうざいうざいうざいうざいうざいうざいうざいうざいうざいうざいうざいうざいうざいうざいうざいうざいうざいうざいうざいうざいうざいうざいうざい!」
「みんな私のことをほっぽり出して、結局今更あわてちゃって……!もううざい!…しんじゃえば良いんだ!」
「どうせみんな私なんてどうでもいいくせに。そのくせ自分のせいじゃないって思いたいから私を捜すんだ!」
「大人なんてみんなそうなんだ!父さんもジジイも結局おんなじだった!」
「父さんもジジイも最悪だった!……わたしなんて結局人形遊びみたいになってたんだ。」
「父さんは私をごみみたいにした。ジジイは父さんをごみみたいにした。」
「うざいうざいうざいうざいうざいうざいうざいうざいうざいうざいうざいうざいうざいうざいうざいうざいうざいうざいうざいうざいうざいうざいうざいうざいうざいうざいうざいうざいうざいうざいうざいうざいうざいうざいうざいうざいうざいうざいうざいうざいうざいうざいうざいうざいうざいうざいうざいうざいうざいうざいッ!死ね!」
「——楓ッ!」
気付けば爺さんは僕の背後に居た。
「やっと……やっと……!」
——爺さんがポリバケツに座る楓を抱きしめた。
「いや!さわらないで!お前なんて死ねば良いんだあッ!早く死んでよッ!」
「すまんかった楓ッ!すまん、本当にすまんかったあッ!」
「なんなの、なにあやまってるの!?遅いよ、私がこんなになったあとじゃ……うざい。」
「わしが間違ってた、お前を護ろうとするばかりにっ!」
「……。」
憎悪と困惑が混じり合い、とても年端のいかない少女が浮かべる表情ではない。
爺さんの懺悔の言葉は次第に優しい口調になり、少女を包んでいく様だ。
「わしはな……お前を護ろうとするばかりに、檻を作って仕舞っていたんだ。
周りの大人たちに乱暴されに行くんじゃないかと——お前の親父の通りにするんじゃないかと思っていた。
きっと父親にそんなことを言われた時、お前は怖かっただろう。——わしだって、そんなことを言う奴が
自分の息子だと思えば怖かった。怖くて仕方が無かった。
どうすれば自分の息子から自分の孫娘を護れるか、考えた末が檻を作るということだった。
穢れからお前を護るために…。」
「そんなのウソに決まってる!…だからこんなに辛くて…。」
「——そうだ、全部ウソだったんだ。わしは——。
——全てから逃げるため——だったんだ。檻を作ろうと必死だった。
お前を……お前とわしを囲う頑丈な檻が、必要だった。」
「よくわかんないよ——」
「わしも怖かった。あんな息子を作ってしまった、あんな凶暴な人間を作ってしまった、これはわしの責任——
そう思うと、怖くなった。全て逃げたくなった。全て見たくなくなった。」
少女の強張った表情が緩やかになったような気がした。
「お前は遊びたくてしかたなかったろう。友達と、いっぱい遊びたかったろう。
すまん————。」
一方的に抱きしめられていた少女の腕が、するすると、爺さんの頭を包みこんだ。
そして、少女と老人の、慟哭。
申し訳なさと、嬉しさに満ち溢れた慟哭を聞いていたソラハは、沢山の涙を流していた。
瞳孔が開き、全てを悟ったように——あの頃——この頃の記憶を取り戻した様に。
少女は、
「わたし——がんばるから。爺ちゃんも——。」
ソラハは、そう呟くのだった。
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私は記憶の欠片を手に生きてきました。
それはことあるごとに疼き、存在を主張し、失われた私という揺るがれし存在を再生させようとしました。
私は記憶の欠片を捨てるために生きてきました。
それはことあるごとに危険信号を発し、存在を否定し、失われた私という危険な存在を断とうとしました。
記憶の欠片はそれでも疼くのです。
否定を受け入れず、精神の崩壊を恐れず、存在の主張を続けました。
いつ、それが爆弾の様な存在に為ったか、私は憶えていません。
いつ、取り戻すべき記憶が、取り戻すべきでない記憶に変化したか、私はそれさえ憶えていません。
私は、記憶の欠片を檻の中に封じ込もうと必死でした。
必死で、必死で、必死で、私の精神を護るために、それを封じ込もうとしました。
その実、それは記憶の欠片を囲わず、私そのものを囲ってしまったのです。
いつ爆発するか解らないその存在に怯え、いつ火を点けてしまうのだろうと、様々な行動が制限され、
檻の中でしか生活できない、屑の様な人間に為って仕舞っていました。
——その檻は恰も頑丈そうに佇んでいた。
だが、それは思いの外脆く、安易に崩れていく——。
過去に触れる行為は危険であり、記憶の欠片は今に爆発し、
精神を崩壊へと導くのではないかと感じていました。
老人の——優しい表情。
私はその時“強く生きる”という事を決心し、世界に抗ってまで生きると誓ったのでした。
決して、過去とは暴力的ではなかった。
いつしか、時間の経過と共に、暴力的な脅威として変貌したように感じていたのです。
売春という、人生を揺るがす暴力的な脅威は、その時に断たれた筈だったのです。
私自信が無責任に、それを蘇生させ、怯えていただけでした。
老人が——私の祖父が、それらを断った筈なのに。
刺激の無い日常——つまり檻を祖父から与えられ、もう脳味噌が溜め息を吐く程でした。
祖父の必死さはひしひしと脳味噌が感じていた、それであるがために刺激を求めたのです。
役に立ちたかった。たった独りで私を支えようとする祖父の役に立ちたかった。
父親から教わった、所謂“売春”という方法を試そうと、そう決心し、私は家を出ました。
家を出て行くと同時に、私は何故か祖父に見放された様な気がしました。
自らが、祖父という場所から離れて行ったのにも関わらず、こんなことを間接的にさせた祖父を憎みました。
“もう、うざい。人形遊びみたいにして。”
希望はいつしか絶望へと変わっていたのです。
甘えたかった、祖父に甘えたかった、世界に甘えたかった。
——結局、私は祖父の憂いを募らせるだけだったのです。
そう悟った私はこの過ちは繰り返してはいけない、と、幼いながらも、誓ったのです。
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やはり、予想は的中しているようだった。
この少女——楓——はソラハだ。
——わたし、がんばるから。爺ちゃんも——
その呟きは全ての記憶を取り戻した、という様に汲み取れた。
つまり、あの爺さんは、ソラハの祖父。
道理で無駄に息が合っていた訳である、と、心情的な判断を下す。
もしかして——いや、絶対にソラハはこの瞬間で記憶を取り戻した訳ではないだろう。
ソラハの様子からすると、幼い自分と対面した時、或いはこの“悦ノ宮市”に来た時から記憶を取り戻していた筈だ。
「も、もしかしておまんは——!」
爺さんが驚いた様にソラハを見る——え?
「楓!楓じゃなかろうか!」
爺さんがソラハに詰め寄り、ソラハは困惑している。
——どういうことだ?
確かに、さっきのソラハの呟きは『楓=朝比奈空葉』を証明する様だったが、
何故爺さんがそれを悟ったのだろうか。
僕はソラハと共に“疑似自殺”をし、この“疑似世界”を体験しているからこそそれに気づけたのだ。
この経緯は爺さんには話していないはずだ。もしかするとソラハが——。
いや、違う。ソラハの困惑する様子で、話していないことが見てとれる。
では一体どうして——。
「————そうか、道理で。道理でおんなじ雰囲気しちょったがか。——これはやはり——」
————奴が決めたことなんだろうか————。
「どういう意味ですか!」
咄嗟に僕は問いだたす。
全て悟った爺さんの表情はどこか浮世離れしており、これはただごとでは無いと感じた。
「もう、わしは恐らく消える。——少年。」
「な、なんですか。」
「お嬢ちゃんを——楓を頼む。」
刹那、爺さんの姿は無くなった。
そこに存在していなかったかの様に、一瞬にして消えてしまった。
何が起こっている、あの言葉はどういう意味なんだ。
“奴が決めたことなんだろうか”
「う、ウイ君、何が起こってるの?——爺ちゃんはどうして——」
「僕が知ってる訳が無い。」
「お、おじいちゃん!?」
幼い、過去のソラハ——楓は咄嗟のできごとに凄まじい恐怖を感じている。
「おじいちゃんはどこ!?どこにいっちゃったの!?」
折角解り合うことが出来た祖父が突如消えた、という残酷な展開。
いや、まだ消えて、会えなくなると決まった訳では——。
「ね、ねぇ!?どこに!どこに……!」
「お爺ちゃんはね、」
ソラハは優しげなまなざしを、過去の自分に向けている。
「もう、楓ちゃん自身で強く生きていける、って思ったんだよ。」
「……そんな、そんなこと……。」
「大丈夫だよ。きっと——いや、絶対に楓ちゃんは良い人に出会う。でもその人は君を見放すかもしれない。
楓ちゃんを見放して、酷いことを言うかもしれない。」
「なんでそんなことわかるの!?そんなことどうでもいい……おじいちゃんが消えたって……。」
「——さっき私は“楓ちゃん自身で”って言ったよね。でも、それは間違いなの。今わかったんだ。
おじいちゃんは——楓ちゃんの中に入ったの。楓ちゃんの中で、楓ちゃんをこれから支えていくの。」
大粒の涙をぽろぽろ落とし、わんわんと泣き声を上げる幼い自分を、そっとソラハは抱き締めた。
「楓ちゃんはひとりじゃない。——これからずっと」
————強く、生きていけるから。
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第99章<終末は神との繋がりで免れる>
あなた方は言う。崇拝とは偉大であり、万人を救済へと導く唯一の方法であると。
しかし、私は言う。それこそが救済を導くのではなく、神との繋がりこそが救済であると。
かつて終末神が宿り、上限を超えた世界を破滅へと追い込んだ。
その世界とは今の世界と異なり、今の世界とはその世界と異なる。
決して交わることの無い、過去と未来のような二つの世界である。
生存を賭けた彼等の行動は無駄に終わったのか、私達には想定できる範囲ではない。
自由を手にすることが出来、彼等、幸せな道を歩んだのか、想定できる範囲ではない。
汚染とは心の穢れを示し、心とは純粋無垢な在り方を示す。
時期に、終末が訪れた世界と同様に、今の世界にも終末が訪れる。
終末神を崇拝する者に、幸福の道を採択することは不可能である。
今こそ、神との繋がりが採択されるべきである。
終末神との繋がりを求める者を、受け入れてはいけない。
今の世界は過ちで出来ている。
人間は人間としての自律を失い、或いは人間を辞した。
人間の手に依って、人間達は其れ等を渇望し、暴力的な迄の欲望が渦巻いた。
この過ちは、もう拭う事ができない。
ソーツは必ず、幸福の世界へと導く。
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第弐話:シニタいといぅ限ドがこぇるトき(ああああ)
シんジツをもとめルことは***がウマレるといぅこ戸
そレは“きょむ”ではなく“きぼう”でアル
眼球がこっちをみてるから食べた
こっち(=シンジツ)をみるな、みると食べちゃうぞ
ヲワリはクるよイイイイイイイイイイつか
こないでこないでこないでこないでこないでこないでこないでこないでこないでこないでこないでこないで
ゥルサイ、シネ
ソこからアカい液タいがトルトルシタタッテシンジツをクチビルにノセる
ウうん、なにもないんだ、シンジツなんて、ヲワリのセカィのシンジツなんて
ウー、イッパイイっパイなセカィはヲワリヲワリ
ツまりはシネ、ゥルサイ
眼球がこっちをみてるから食べた
こっち(=シンジツ)をみるな、みると食べちゃうぞ
彼の腐乱臭がセカィの中で壱〇〇〇〇〇し、眼窩から零れた眼球はコッチヲ見ている……
仲間にしますか?
はい
> いいえ
ibukuroにオサメマスカ?
>はい
いいえ
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第15話:肉の世界(ゾウタニにて)
サイケデリックな色彩で構成された、異常なまで悪趣味な空間。
天井からは幾つもの首吊り縄がぶら下がり、座席には蛍光色の黄色に染められた切符が置いてある。
立ち上がり、外の様子を窺うもこれといって変化は無く、赤を基調とした世界が広がっている。
ソラハは既に目が醒めていた様で、ひとり、座席に腰かけ揺られている。
「あ、おはよう。ウイ君」
こちらに気が付き、ソラハは座席から腰を浮かせた。
何か声を返さないといけない気がして、僕は考え込んでしまった。
さっきまで居た疑似世界の出来ごとは鮮明に憶えている。だからこそなんて声をかけようか解らない。
僕の予想は最悪にも的中してしまった。あの少女はソラハだった。
「あ、あのさ」
「解ってるよ、言いたいこと。なんとなくだけど」
「ん!……あ、ああ」
不意打ちを食らい変な声を上げてしまったが、全てソラハは察しているようだった。
まず、聞きたいこと。
それは——。
「私は大丈夫だよ。——記憶を取り戻すまでは怖くてしかたがなかった。
本当に真実を知っていいのかって自分自身を脅す自分が居た。
けど、それは勘違い。私は平気。もう、大丈夫。」
「……そうか」
「あとね、ソラハって名前なんだけど、それは記憶喪失を起こしてから付けられた名前だったの。
あの時、私はお爺ちゃんに見つかって——まあ、ウイ君なんだけど、——ってそれはどうでもいい。
実際はね、私はお爺ちゃんにも、当然ウイ君にも見つかってない」
疑似世界とは厭くまで疑似であり、現実ではない。幻想だ。
幻想とは全て幻想のままなのだ。現実は現実のまま、ソラハに刃を突き付けていたようだ。
「そうして私は行く当てもなく、フラフラフラフラさまよってたの。あれだよ、“ほうろうのたび”?」
僕に笑いかけるが、そんなことどうでも良い。さっさと話せ。
「……ウイ君表情怖いよ」
「いいから。どうなったの」
「そんな時、ひとりの王子様——おじ様が現れて、“親はどうしたの”って聞いてきた。
私はなんだか怖くなって、逃げようとしたんだけど“怖がらなくて良い”って優しく言ってきたの。
——今考えたら、不審者ってそういうこと言うんだと思うけど、その人は違った。
んで、その人と一緒に暮らした。」
どうでもいい所は長々と喋る癖に、肝心な所は端折られた。
だから僕は補足を願う。
「……その人はなんなんだ。家族持ち?」
「うん。奥さんと二人暮らしだった」
「どんなんだった」
「え?」
「え、じゃなくて。優しくしてもらえたのか」
不意にソラハの表情に影が差した気がしたが、普通の明るい表情で話し始めた。
「ええと、途中までは優しかったよ。ホントの子供みたいに優しく接してくれたよ。」
「途中?」
こんなことを訊いて何になるのかと思ってしまったが、気になることをそのままにしておくのは気持ち悪い。
「ええと、おじ様がね」
「いや、もうその呼び名は良い。気持ち悪い」
「あ、そう?……おじさんがね、私が中1の時にアルコール中毒になっちゃって。
多分、会社のストレスだったと思うんだけど、家庭の雰囲気がすごく悪くなったの」
家庭と呼べるほど慣れ親しんだ場であった筈なのに、それは脆く崩れてしまったのか。
「なるほど」
「うん、そういうこと」
——ガチャリ。
『おはようございます。気分は如何ですか?』
「良いよ、私は」
『それはそれは』
険悪なムードが漂っているのは、迂闊にこの女と会話してはいけない状態にあるからだ。
ソラハの祖父は「奴が決めたことなんだろうか」という言葉を残した。
その“奴”とは誰か解らない以上、下手に言葉を交わすことは憚られた。
ただでさえ得体が知れないのだ。最初から慎むべきだったのだろう。
と、電車の速度が緩み始めた。
『次は——臓谷、臓谷(ゾウタニ)ー』
また駅に着いた。以前はリスカという胸糞の悪い風景を見させられた。
今回も嫌な予感しかしなかった。
『では、お降り下さい』
「もう良い」
『どういうことでしょうか』
「もう、降りたくはない」
『今回は、そうとばかりはいきません』
「…なんでだ」
『私がそれを言う様には出来ていません』
会話が今一つ噛み合ってない気がする。言葉遣いも何処か変だ。
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何をすれば良いのか解らないままに、僕等はその地に立った。
駅のホームが第一に可笑しい。地面は何故かどろどろしており、壁は肉で覆われている。
血管の様なモノがそこらじゅうに這い、不快感を憶える。
しかし、今更そんなことには驚かない。いや、慣れてはいないが、唐突でもない気がした。
それよりも驚いたのは——
「うわー!きれー!」
——という、ソラハの第一声である。
勿論、この臓谷と呼ばれる地を見た瞬間の言葉だ。何処にも綺麗なんて要素は無い。
汚いし、気持ちが悪いし、地面はどろどろして歩き辛く居心地が悪い。
僕は呆気にとられてしまい言葉を失っていた。「え?」のひとつも返せなかった。
そして、僕は独りだ。
ソラハはこの地に降り立つや否や、何処かへと走り去ってしまったのだった。
追いかけることが出来なかった。
此処で追わなければ消えてしまう気がしたが、追いかけるとソラハの変わり果てた姿を目の当たりにするようで嫌だった。
これから何をすれば良いのか、という疑問は無くなった。
まず僕がやるべきことはソラハの捜索である。何歳になっても捜索の対象なのか、と腹が立った。
普通なら駅員さんにキップを渡す所が、肉で埋もれて何が何やら理解出来ない状態になっている。
それをスルーし、路線図を見てみると——難解な記号——いや、文字が羅列されていた。
駅名を示しているのだろうが、これは明らかに日本語ではなく、ましてや英語でもない。
見慣れない、記号の様な文字である。
今更ながら怖くなってきた。
もう良い、疑似世界に飛び込みたい、現実に近い世界に飛び込みたい。
こんな気味の悪いグロテスクな世界は嫌だ、怖い。
——僕は電車へと引き返した。
此処でソラハを待つ、此処で待っていればいつかきっと帰ってくる。
僕がわざわざ捜す必要なんてなかった。
不思議とアナウンスの女は話し掛けてこなかった。その方が幾らか良かった。
普通なら会話でもして恐怖心を紛らわせるのが良いだろうが、あの女の口調では恐怖心が増すばかりだ。
一言で言うと、不気味。
——30分くらい経っただろうか。
電車で待つこと自体が心細くなってきた。が、あんな所へは行きたくない。
——1時間。
流石に心配になってきた。いや、自分が。このままソラハが帰ってこずに、電車は発進せず、餓死してしまうのではないだろうか。
もう、良い。行ってやる、捜してやる。捜してソラハを殴る——ことは嫌なので怒鳴ってやる。
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無数の血管が壁に張り付いているせいか、不思議と生命を感じる。
——。
たくさんの宝石が壁に張り付いているせいでしょうか?なんだか“生きてる”って感じがします。
あれ、なんで“生きてる”って感じたんでしょう。
宝石って大富豪が買い漁ってるイメージが拭えないから、その消費から“生命”が連想されたんでしょうか。
よく自分がわからなくなります。
しかし参りました。あまりの豪華絢爛な空間につられてウイ君を置いてきぼりにしちゃったんです。
私はある程度の馬鹿だと自負していますので、別にその行動が自分からして意外だった訳ではありません。
いつも私は衝動的に行動してしまうのです。幼い頃の、家出だってそうです。
思い出すと恥ずかしくなってきました。あまりに感情的です。
——この状況も、後々恥ずかしくなってくるのでしょうか?
ところで私は電車にそろそろ戻りたいのです。
しかし、私は完全に迷子です。
あぁ、お恥ずかしい。もう恥が来ました。意外と早かったです。
取り敢えず、「ウイくーんッ!!」と、喚いてみましたが当然のように反応はありませんでした。
ウイ君のことだから、なんやかんやで私の捜索に専念している筈です。泣けます。
遭難した場合は、よく“動かない方が良い”と言われますが、そんなの無茶です。
来るか解らない救出を黙って待ち続けるだなんて、私には到底無理な話です。
私は“衝動的に動く”人間ですから。生きるためだって、死ぬためだって、全力です。
赤いカーペットを踏みしめながら、ウイ君、あるいは電車を捜します。
壁にかけられた、鹿の剥製がこれでもかとそれぞれの部屋に飾られていますが、私は嫌いです。
私から言わせてみれば悪趣味です。悪趣味。
——。
吐きそうだ。口の中に広がる酸に危機感を憶える。その内にきっと吐く。
僕がソラハ捜索をしたところで、電車に帰還できるアテはあるのか。
ましてやソラハが見つかる保障は無い。それは奇跡に等しい結果である。
しかし、ソラハは鋭い所もあるかと思えば、馬鹿な所もある。
いいや土台が馬鹿で、それから成り立つ要素が複数存在しているだけか。
一概には言い表すことの出来ない人格だが、僕は少なからず嫌いだ。
“衝動的に動く人間”は必ず過ちを生む。十中八九そうだとは言えないが。
僕は、死ぬ為だって、生きる為だって、考慮してから施行する人間だ。
ドクドクと鼓動する赤い肉を踏みしめながら、ソラハを捜す。
壁から覗く眼球がこれでもかとそれぞれの部屋に生息しているが、不快でしかたがなかった。
僕から言わせてみれば理解できない。存在が理解できない。
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第16話:魚
肉感的——というと少し官能的な気がするが——な部屋の裏側に僕は居た。
ここは深淵。鼓動を喧しいほど聞いたような感覚に陥るあの部屋とは正反対の、深淵。
視界の全ては暗闇であったが、瞼の裏側からは、七色の光を見ることが出来た。
七色の光の強さは、呼吸をするかのように、強弱しており、瀕死という言葉を連想させた。
“ここは死の空間だ”と僕の感性が伝える。さっきまでの部屋は“生の空間”であったのだ。
ありもしない真実を追求するのをやめ、僕は歩き始める。
そもそも、何故僕がここに居るのか解らなかった。
確かに僕は“生の空間”を歩いていたはずだ。眠りなどしなかった。
テレポーテーションというやつだろうか、これも真実を追求するのは無意味と思えた。
現実直視とは、現実逃避の対義語である。
現実逃避は僕にとっての“息をすること”であり、現実直視は“息を止める”ことであった。
“生の空間”とは、現実逃避の空間。“死の空間”とは、現実直視の空間——。
根拠が無く、空想染みた考えだとは思うが、何故か腑に落ちた。
魚が、泳いでいる。
凝視する。
すると、ただの暗闇だと思っていた空間が、実は波打っている事が解った。
海の深淵、深海。そう、深海という表現が似つかわしい。
その魚はこちらを見ている。
じっと正面から見られている訳ではなく、ただ悠々と泳いでいるだけであったが、そういった様に感じられた。
鱗が、なぜか反射しキラキラと光る。七色の光の正体はこれだったか。
尾びれや背びれはユラユラと踊り、ゆったりとした落ち着ける印象を受ける。
しかし、残酷な何かも、暗い水によって伝わってくる。
キラキラしている光が、なにかこう、鋭い刃物のように感じられたのかもしれない。
普通に見れば只の綺麗な情景であるはずなのに、なぜだろう。
突如、有るはずの無い水面から黒い影が差し、魚は死んでしまった。
赤黒い血液が、黒い水——色は判別できる——を広がり染めていく。
ぐったりと横腹を上にした魚は、浮力に耐えきれず浮上する。
それがとても遅く感じられ、とても恐ろしく感じられた。
漠然と“死”を認識していた自分が恥ずかしくなり、“死”とはこういうことなのだ——と初めて解った気がする。
親戚の葬式でさえ感じなかった感情であった。
ふと、考えがよぎった。
この死んだ魚と共に浮上することが出来れば、この空間から脱することが可能なのではないか——。
だが、僕の足は地に着地していた。しかし肩の力を抜くと浮遊することが出来たのだ。
“死の空間”は居心地が悪い。正体不明の義務感に駆られるのだ。
“こうしなければ真っ当に生きていけない”——そんな声が聞こえた訳ではないが、そう思わされた。
ユラユラと揺れている、カラダもココロもユラユラと揺れて、浮遊する。
光は泣いている。泣いたあの日を想起し、揺れる。
魚は虚ろな眼でこちらを見る。僕はそれから目を背け、浮遊する。
共に浮上する。光は泣いている。光は、喚く。
赤黒い靄を未だに吹きながら浮上していく。
尾びれがユラユラと揺れる。
そして、水面の膜を破った。
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第17話:異世界アンビエント・ミュージック(錆びた鉄に赤、黄色)
——赤黒く広大な世界がひたすらに流れていく。
幾つもの月が夜空に浮かんでは消え、無数の星はテンポよく個体の増減を繰り返している。
徐々に聞えてきたのは、電車特有の線路の凸凹により揺れる音。ガタガタゴトと鳴る。
水面の膜を破ったのち、僕は温かい何かに包まれ、気持ちよさを感じた。
まるで人の温もりの様な、生命の誕生の様な、絶命の瞬間の様な、快楽を憶えた。
帰ってきたんだ。
ふと全身の皮膚感覚が蘇り、今まで何も感じていなかったことを認識する。
右手には、手が、色白いソラハの手があった。あった、ではなく、握っていた。
ソラハがトロンとした顔で眠っている。涎をふしだらに垂らして、木偶人形のように眠っている。
自ら率先してソラハの手を握った訳ではないのだが、なにか背徳感を感じ、サッと手を離した。
こいつ生きていたのか、と確認をする。
いいや、生きているとは限らない。もしかすると死んでいるのかもしれない。
そう嫌な考えが頭をよぎったが、それはすぐに否定出来た。
手を握っていたとき、確かに温もりを孕んでいた。
思考を巡らしているうち、この時間は非常に安息であると感じた。
ガタガタゴトガタ……ン…。
それ以外の判別できる音は殆ど無く、布擦れとソラハの寝息ぐらいがその音と混じって、安息を齎す。
僕も、寝よう。
「ウイ君」
「なんだ…起きたのか」
ゆっくりと座席の背もたれから体を起こし、目をこすっている。
「…帰ってきたの?ふう」
「ん、ああ、まあ。いつ帰ってきたのかは、あれだけど」
「へえ、……ん。どういうこと…?」
「え、いやさ、僕も寝てたらしくてさ。起きたらここだった」
「いや…私が訊いてるのは……まあいいや」
ソラハはグーッと背伸びをして、ふっと力を抜き、パタリと倒れるように横になった。
指先で座席のシーツ(毛布素材)を弄っている。
「その、ソラハさ」
「んー」
「——なんで走り出した、んだ」
「いやさ、綺麗だったじゃん!」
「…感性を疑うよ」
「えー?」
もはや同じものを見たと考えるのは止めた方が良いかもしれない。
あの空間を本当に“綺麗”だと言えたならそれこそ気が狂ってる。
かといってソラハに異常は見られないため、まだ正常である筈だ。
もっとも、それを肯定したい。
僕は一連の不可思議な出来事が、とても速く経過し、それでいて遅く感じられた。
不可思議な出来事というのは、“生の空間”“死の空間”を指すものであり、この現実直視を指しているのではない。
現実直視こそ不可思議だが、それを現実として、普通として受け入れている自分が居る。
後者の遅く感じられた、というのは不確かな感覚で、前者は確かな感覚だ。
全て、生きている清らかな水のように、スムーズに事は進み、今に至る。
「ね、ねえ!!ウイ君!?」
「どうした」
「街!街が見えたよ!!」