ワザップ!フォーラム
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陽が落ち、薄暗くなってきた。
何の虫かは知らないが、心地良い音を奏でている。
静寂の中、僕の心で残響し、反響し、虚しくなる。
誰一人言葉を発しない空間。
今まで何度もそのような状況を味わったが、ここまで心地悪く感じた事は無かった。
直ぐにここから逃げ出してしまいたい。
こんなにも心が騒いでいるのに、不条理にも空間は静寂に包まれ—。
哀しいとも、虚しいとも形容しがたい空間に、僕は身震いした。
なんで僕は怒鳴り散らしてしまったのだろう、と心の中で呟いた。
今思い返せば腹を立てる事など無かったのだ。
その場の感情に流されてしまったが、雰囲気に流してしまえば何とも無かったことなのだ。
死にたくなる。
死にたい。
ソラハの腕が微かに動く、服が擦れる音が聞える。
ヤナギの気を紛らわそうとする、少しの動作が気になる。
お前が切り出せよ。
そもそも根本はお前なんだよ。
—僕が謝らないといけないのか。
—そんな馬鹿な事など無い。
客観的に見て、意味不明な事を怒鳴った僕に対して、ヤナギはすぐに謝った。
それこそが不思議だ、気味が悪い、可笑しい、怖い。
何か裏があるんじゃないか、と思ったが、何の裏があるんだよ、と思ってその考えは捨てた。
「……………すいません。」
気が付くと僕はヤナギに、いや、ソラハにも謝っていた。
「……僕こそ、人の話を最後まで聞かず…、その。」
本心で謝ったのかどうかは解らない。
もしかするとこの状況から逃げたい一心で放った言葉かもしれない。
「お前は謝る必要無いで。」
低いトーンで、しかし強い口調でヤナギはそう言った。
「俺が……お前らの……なんかの事情をしらずに押し付けたから……やねん。」
文章になっていない僕とヤナギだったが、それとなく話は通じている。
僕はこの人に事情を全て話そう、と密かに決心した。
例えこの人が疑似の、偽物の世界の住人だとしても。
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「僕等は違う世界からきたんです。」
全ての事情を話すことにした僕は、そういって話を切り出した。
「…へ?どゆことなん?」
「私達は現実から来たんです!!」
ソラハは声を張り上げて、「ここは偽物の世界なんですよ!!」と何の躊躇も無く付け加えた。
「いやいやいや、ありえへんやん。俺は今まで普通に生活してきたんやで?終セカイからこの世界を護ろうと必死やったんやで?」
「この世界はあいつによると—僕等の記憶がベースにつくられた、いわば疑似的な過去—で、終セカイというのは存在しない—」
それは、強い感情、自殺願望を通して忠実につくられた—。
と、僕の思考は停止した。
忠実?それは真実だろうか?
真実ならば“終セカイ”の訪れも確かに存在することになる。
が、もしヤナギが言った事が偽りならば、電車のアナウンスが真実となる。
僕等は“終セカイ”など知らなかった。
ヤナギが嘯いていると考えるのが妥当だろう。
ソラハは何かに勘付いた様子で身を乗り出した。
「終セカイ?だっけ、について詳しく聞かせて下さい!」
どうやら僕と同じことを気付いた様だ。
鈍感だと思っていたが、意外と鋭いのかもしれない。
ヤナギは到底理解出来ない、と言うように後頭部を掻いた。
そして、語り出す。
「終セカイはいうた通り、戦争や。宣言されてんねん、僕等は戦争しますってな。
そんなんふざけとるやろ?許す人間なんて政府とかの奴らだけや。世界中の一部国民は回避できへんか探してる。」
「…世界中?日本と他国との争いじゃないんですか。」
「日本も戦争に加担する事は決定付けられてる。ただ相手国は—決まっていない。」
「ちょ、ちょっと決まって無いって一体!?もしかして無差別に攻撃!?」
「落ち着いてソラハちゃん。そうちゃう。相手は解らへんねん。その時が来るまで。」
ヤナギが語る“終セカイの事実”はこうだった。
*
相手は“最新鋭の兵器”を使用し、世界中は混乱に陥ると宣言した。
ヤナギ含む組織は終セカイからの回避を図り、方法を模索ししている。
ただ、相手の存在が不明瞭なため、方法は解らずじまいである。
そもそもその宣言は何処かの国の政府が発表したものとされ、何処かは不明だ。
つまり、今言えることは
・最新兵器が猛威をふるう大戦争。
たったそれだけのようだ。
*
「相手を、その政府が隠蔽している可能性は無いんですか。」
「まだそれも解らん。」
どうも信憑性の無い話だが、それがかえって現実味がある様に感じた。
この話が真実ならあのアナウンスも真実だとすれば、現実世界に終セカイが訪れる。
アナウンスが嘘で、忠実でなければ、終セカイは来ない。
ヤナギが嘘で、アナウンスが真実だとしても、来ない。
もう何を信じればいいのか解らない、頭が混乱する、嫌だ。
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「何でか知らんけどな、終セカイの宣言されたんはごく一部の人間やねん。」
「……じゃあ僕等が知ってる筈無いじゃないですか。」
「ごめんな、俺そういう時あんねん。自分中心で考えてまう。」
しかし宣言された人物は少数とはどういうことだろうか。
不特定多数、もしくは全世界に向けた宣言では無いということか。
陽が完全に沈み、住宅からの放たれる光が目立つ。
どうでもいい事だが、僕はその光に対し、魂を連想させる癖がある。
建物が見えなくなることで、光が浮かんでいる錯覚。
幼い頃はそういった面で夜が好きだった。
「ところで私達は何をすれば良いの?」
今居る世界が現実では無いことは確かだが、もし、現実でも“終セカイ”が訪れるとするならば、その対策を知っておいた方が良い。
「それは—。」
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絡み合う思念や憎悪や嫌悪や色彩。
死に際の始まりを予感させる。
魂の連鎖は此処で途切れるという感覚。
吐き気を覚えて。
僕は吐き気を覚えて。
電車の揺れを感じる。
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第8話:嫌な生還(二度目の異常世界)
吐き気を抑えつつ、僕は意識を取り戻した。
色彩は相変わらず赤を基調とし、悪趣味に混ざり合っている。
外へと視線を移すと、色彩、造形が異常な風景が流れている。
—帰ってきたのだ。
僕は寝転がった状態から意識を取り戻したのではなく、首吊り革を掴んだ状態からだった。
ソラハも同様で、僕の隣で目を開き、溜め息を吐いた。まだ虚ろだ。
ヤナギはどうなったのだろうか、何故あのようなタイミングで此処に戻されたのか。
腑に落ちない。
僕の記憶から創られたあの世界は、今も違う世界として続いているのだろうか。
いや、そんな筈は無い。
所詮は記憶の中の世界なのだ。僕の頭にしか存在しない。
ということはやはり—終セカイも存在するのだろうか。
と、頭上の方から、ガチャ、という音がした。
『どうだったでしょうか?直視出来ましたでしょうか?』
この気持ちの悪い、抑揚のない口調は、まさしくあの女性だ。
「そんな事よりお前に聞きたい事がある。」
『はい、何でしょうか?』
「……疑似世界は、本当に僕の記憶をベースにした、現実に基づいた世界なのか。」
『はい。貴方の知らない事まで再現しております。』
「記憶は飽くまでベース、ということだろ。」
『その通りでございます。』
ソラハはようやく意識を取り戻し、辺りを見回した。
「あー、戻ってきちゃったんだー…。」
僕の頭に考えがよぎる。
「…ソラハ、確かヤナギの所でヘアピン買ったよな。」
「え、うん。」
「今持ってるか!?」
「どうしたの、声張り上げて。私は落とさないよ、そこまでドジじゃないし。」
スカートのポケットから二つのヘアピンを取り出した。
と、いうことは。
「物体も首吊り革で転送できるのか…。」
自殺願望を力にして、記憶の世界、疑似世界へと転送する首吊り革は、物体も転送できるようだ。
『当然でございます。何よりそうでなければ、身体なんて転送出来かねますので。』
それもそうか、と素直に納得してしまう。
非現実に慣れてしまった。
『初めての現実直視、どうだったのでしょうか?』
「大したことなかった。」
そう、それは強がりでも何でもない、率直な感想。
さほどのショックも無く、「ああ、そうか」と自覚する程度の衝撃であった。
他人であるソラハは何故か自殺しかけたが。
『そうですか。案外と心が強いのですね。』
あと一つ、聞いておこうと思った。
「……疑似世界で…は死ねるのか?」
『はい、死ねますよ。』
何の躊躇も無く女性は断言した。
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“死ねる”
その言葉は何らかの強い力を帯びているようだった。
—僕は死にたい筈なのに。
背筋が凍る様な、本能的に感じた“怖い”という感情。
今更何を怖がっているのか、僕は解らない。
『首吊り縄で転送するのは紛れもない、本当の肉体と意志。偽りなのは世界だけ。
もしその偽りの世界で死ぬと、現実世界でも、死んだ、という事になります。』
違和感を感じたが、確かに偽りの身体、という感覚はしなかった。
まずその感覚を知らないのだが。
「じゃ、じゃあ……。」
小刻みにソラハの声が揺れている。
「あの時、ウイ君に止められて、無かったら、本当に、死んでたかも……。」
恐らくあの時は、自殺する決意そのものは固まっていなかったのだろう。
僕の言葉は一種の救いだった、という訳か…。
薄々ソラハを助けた自分は恰好良いと自惚れていたのは内緒だ。
「どのみち言おうと思ってたけど…ありがとうね。」
僕は心拍数が上がるのを感じながら、
「あ、ああ。」
とだけ言った。
*
何時間も経った気がする。
気がするだけではなく、実際経ったのかも知れない。
疑似世界での時間の流れは急で直ぐに終わったのに、電車の中は不思議と流れが遅く感じる。
外を見ていようとしたが、目に映る物全てが異常で気が狂いそうになる。
ソラハと話す事は出来ない。今更のどきどきが止まらない。
—と、電車のスピードが緩やかになった。
『えー、腕切(ウデキリ)駅。腕切駅ー。』
凄く物騒なネーミングの駅の名前を、女性は本来の電車のアナウンスさながらの調子で言った。
「え、駅なんてあるんだ。」
「駅なんか必要ないだろ。」
誰か違う人が乗ってくるのだろうか。
僕等と同じような人間が乗ってくるのだろうか。
『駅は気紛れでつくりました。名前は先程決めさせて頂きました。』
ということは何の意味もなさないし、人が乗ってくることは無いという事だ。
どうしようか、試しに降りてみるか。
だが、そうなると本格的にソラハと二人きりだ。
何を話したら良いのか解らないし、どう振る舞えば良いのか解らない。
「降りようよ!」
手を繋がれ、もうどうにでもなれと思った。
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今思えば、僕のこの心拍数の上がりようは吊り橋効果の所為なのかも知れない。
自分がおかれている危険な状態から来る緊張を、恋の所為だと勘違いするというものだ。
僕は電車に帰還したあとからドキドキしていた。
僕はそう自分に言い聞かせながら、ソラハと手を繋いで異常世界の地を踏んだ。
駅は現実世界と全く同じであったが、相変わらず色彩は異常である。
空は赤黒く広がり、何やら古代文明の絵の様なものが空に、光で描かれている。
ひさひさと浮かぶ星は微熱を孕み、それは一つになり、また、無数に広がり、テンポよく変わっていく。
月は間近に迫り、クレーターでさえも克明に見ることが出来た。
「やっぱり、綺麗じゃないね。」
綺麗な、大きな月。増えたり減ったりする星。
普通の感覚で言えば、不思議で綺麗なのかも知れないが、僕等にとっては不気味で、不快であった。
ただの悪ふざけで創られた世界としか思えない。
—僕等は、本当の悪ふざけを見てしまった。
無数の人々は、手首を切りつけては前進し、また手首を切りつけて、前進する。
無限の自傷行為。鮮血が滴ったかと思えば、それは治まっており、また切りつけられ、鮮血が滴る。
そして、千鳥足で歩く。
まるでそれは映像で、再生し、巻き戻し、また再生している様だった。
「もう、戻ろうか。」
明らかに沈んだ表情をしたソラハにそう呼びかけ、電車の中へと戻った。
心から可哀想だと思う。
*
電車の揺れを感じながら、それは僕とソラハを運んでいく。
僕等は座席に腰をかけ、電車に身を委ねていた。
まだ現実直視を繰り返すのだろうか。
ただ、あんなもので終わる気がしなかった。
あんなどうでもいい過去を直視しただけで終わる気がしなかった。
きっと、次はソラハの番だ。
記憶を無くしたソラハに対し、無情に現実を突き付けるつもりだ。
「……ウイ君。」
表情が強張ったままのソラハが僕のあだ名を呼んだ。
「きっとね、次は私の記憶に行くんだと思う。」
「……うん。」
「だからね、その……護って欲しいんだ。」
「……うん。」
そういうと、強張った笑顔をソラハは僕に向けた。
そういうと、ソラハは僕の手を探る様に、手を這わしてきた。
もう一度手を繋いだ僕等の手は、震えていた。
小刻みに震える僕等の手は、共鳴しあい、その震えこそがこの電車を動かしている様な、そんな気がした。
その震えこそが、この非現実的な現実の世界の全てだと思った。
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あの、嫌な予感のする音が聞えてきた。
——ガチャ。
『それでは疑似自殺の準備をお願い致します。』
また始まる。
だが一回目があんな調子だったのだ、今回も難なく乗り切れる。
ソラハもきっとやれる。
そう信じて僕等は決心するのだった。
『今回は、切符…。リストキップというモノで疑似自殺して頂きます。』
「リストカットか。」
『そうでございます。リストカットをする際、どう切れば良いかご存じでしょうか?』
「……縦だろ。」
『流石でございます。やはり慣れているのでしょうか?』
「ちょっと…。」
ソラハが僕を気遣ってか、狼狽している。
「煩い。早く始めろ。」
『では、座席をご覧ください。その切符で手首を縦に切るだけでございます。』
座席に目を移すと、紫色の切符が二枚、置かれていた。
その切符には“非現実-現実”と書かれている。
次の現実直視の標的となるのはソラハだ。
そんな気がした。
「ウイ君……。」
「ん?」
「私、頑張ると思うから。」
「うん」
そういってソラハと僕は同時に、手首を切符で、縦に切りつけ、裂いた。
手首を走る痛み、感情が鮮血となって迸り、僕はその傷に吸いこまれる。
自らの手首に空いた傷に、僕等は吸い込まれた。
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きっとまた私はウイ君を困らせてしまうのでしょう。
—でも私は今度は逃げない—と思うのですが—やはり怖いのです。
次はきっと私の記憶で—現実直視を強いられるに—違いないのです。
さっきのリストカット—リストキップに慣れているのは—私でした。
—長い間封印してきて—でもさっきのでもう一回切って—快楽さえ感じました。
“私は此処に居るんだよ”って。
“私は痛みを感じれるんだよ”って。
“私はまだ生きているんだよ”って。
そんな虚しい感情は—いつも私を優しく包み込む様でした。
—でも。
これで最後になれたら—良いなと思うのです。
いや—きっとこれが最後で—きっと誰かが優しく—リストカットよりも優しく—包みこんでくれる様な—。
そんな気がするのです。
—それはウイ君かも知れない。
—でも、それは解らないけど。
きっと、誰かが優しく包んでくれて、私も優しく包み返す様な。
そんな人が現れるような。
—そんな気がするのでした。
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第9話:夏への嫌悪感(眩む日常)
蝉しぐれがしゃあしゃあと降り注ぐ。
目を閉じているらしい僕はゆっくりと瞼を開いた。
どうやら駄菓子屋の戸の前に置かれたベンチで、座ったまま寝ていたようだ。
太陽に曝されたベンチは熱く、その温もりが僕の身体を巡回し、汗が噴き出してくる。
風鈴が吊り下げられており、凛とした音を奏でていた。
—夏だ。
僕は夏が大嫌いで、雰囲気に馴染めないのである。
太陽は“全ての人を励ますよ”と言わんばかりに光を発し、部活をしている奴は、汗を流しながら練習に励む自分に酔い、
“部活なんて下らない、クーラーで涼むのが一番だ。”等と斜に構えている奴が増える季節だ。
厭くまで僕は斜に構えているつもりはない。自己陶酔などしていない。
自己に陶酔出来たらなんて幸せな人生になるのだろうか。
当然の如く横に居るソラハは「あっつー!」と声を張り上げ目を覚ました。
「やっぱ前が春だったから今度は夏かー…しんどいねー。」
「そういや前の疑似世界は春だったか。」
「うんー…。ああー、アイス要るー?」
「……いや、いい。」
「そんな痩せ我慢しなくてもさー!買ってくるよ、丁度駄菓子屋だし。」
ソラハは腰を浮かせ、駄菓子屋前によくある、アイスが入ったスライド式ボックスを開いた。
「うおー!涼しいー!」
漏れた冷気を浴びてはしゃいでいる。
「ウイ君どんなんが良い?」
「……さっぱりしたやつ。」
「了解ー。」
ソラハはサイダー系の棒アイスを二本持ち、レジ(駄菓子屋の場合そう呼ぶのだろうか)へと向かった。
「はい、ウイ君。」
アイスはビニールに包まれており、それから雫が滴り落ちた。
僕はソラハからアイスを受け取り、取り出した。
口に入れると、しゃく、と音が鳴り、冷たさが口内から広がる。
細く息を吐くと、冷気が糸のようになり、表面が熱くなった腕に降り注いだ。
「ああああー生き返るー。」
「まあ、二回自殺したんだけど。」
「お、ウイ君のブラックジョーク!」
「ジョークじゃないよ。」
もうアイスが溶けてきて、アイスの液体が膝に滴り落ち、冷たくて、ちょっと不快な気分になった。
「次は…さ。何処に行けばいいんだろうね。」
「まあそのうち勝手に遭遇するよ。逃避してきた思い出に。」
「…そうだね。」
目の前のアスファルトからは熱気がたちこみ、陽炎となっている。
向かって右から歩いてくる人はタオルとペットボトルで暑さを凌いでいるようだ。
「……そろそろ、行こう。」
「そだね。」
僕等は同時に腰を浮かせ、駄菓子屋を後にした。
*
下からの熱気を感じながら、僕等は歩いている。
「ねぇー。私たち何処に向かってるのー?」
「さあ。」
「さあじゃないよー!」
ひとまずスーパーに避難することにし、店内に入ると、一気に冷気に包まれた。
皮膚の熱気が消えていく。
「生き返ったあー!」
「何回死んでんだよ。」
そんな他愛も無い話をしていると、「ねえ」とソラハが声色を変えてきた。
「あの子…万引きしようとしてる?」
ソラハがゆっくりと指を差した先を見ると、確かに挙動不審な女の子が居た。
小学5年生といった所だろうか。
「……あっ、盗ったよ!ポケットの中に入れたよ!」
「…よし、見てない。僕等は何も見ていない。」
「卑怯だよ!」
「卑怯?僕等は何もしてないし、そもそも悪いのは…」
「いいから止めるよ!非行を!」
何故か僕の手を引いて彼女の元へと急ぐソラハ。
そして、何故か僕を楯のようにして突き出すソラハ。
は?
「……ほら、びしっと言ったげて。」
「……何を仰ってるのか。」
「良いから早く!」
見つかった、と言わんばかりに彼女は出入り口へと走り出した。
幾許かの間をおいて。
「ほら、追うよ!」
何故かは解らないが、僕等は彼女を追う事にした。
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彼女は公園に逃げ込んだ。
僕とソラハは息を荒げている。
「日頃の……運動不足だ……。」
「……私も……。」
ふらふらになりながらも、僕等は公園へと足を踏み入れた。
彼女の姿は無い。
「もう……いいじゃん……。」
「…駄目…だよ……。あの万引きが……彼女の人生を…狂わすかも……。」
無駄に正義感の強いソラハである。
そんな性格で何故現実逃避を強いられる人生を歩んできたのか、疑問である。
「ちょっと……休憩させてくれ…。」
錆びたジャングルジムに腰かけ、一息ついた。
ソラハもまた然り。
—息が整ってきた僕等は無駄な捜索を再開した。
「あのさ、もうどっか逃げてるかも知れないだろ。」
「捜さない事には始まらないよ。」
「そうか…?」
「万引きはーん!でっておいでー!」
「出てくる訳無いだろ。」
「じゃあ私トイレの方捜してくるから、ウイ君はそこら辺見張ってて!」
そう言い、トイレへと砂を撒き散らしながら駆けだした。
何処にそんな元気が残っていたんだ、あんな数秒で体力の回復が出来たのか。
—と思えばソラハと—万引き犯の彼女が出てきた。
「ほらこの娘!万引き犯!」
「解ってるよ。」
「……。」
彼女は黙りこんで俯いている。
ソラハが激しく問いかける。
「もうこんなことしちゃ駄目だよ!?」
「……。」
「…なんでこんな事したの?」
「……………出来ごころだよ。」
ゆっくりと彼女は顔を上げた。
短髪、とはいえ整えられていない短髪が揺れた。
「……そうかー。もうしちゃ駄目だよ?」
「…うん。」
「ほら、ウイ君も何か言って。」
「…もういいだろ、帰してやろう。」
そう僕が助けてやると、彼女は素早く駆けだし、曲がり角を曲がり、姿を消した。
「……シャイなのかな?」
「……シャイの意味知ってる?」
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第10話:襲うデジャヴ(変な年寄り)
万引き犯の女の子をひっ捕まえてから長い時間が過ぎた。
空の明るみは何処かへと吸い込まれ、闇が支配する、その間の時間。
簡潔に言うと夕暮れである。
ソラハと街を徘徊する中、「この街、憶えてる?」と僕が尋ねると「ううん、全く。」と返ってきたので、
僕の心も闇、というより不安が支配しそうになっている。
—という様な事もソラハに言ったのだが、「ウイ君の心はいつも闇に……ううん、ごめんなんでもない!」と言われた。
僕の心を支配しているのは、闇なんて恰好良い響きのモノじゃない。
もっと、餌付くような、例えるとするならば吐瀉物の様なモノが支配している、と考えた方が幾許か納得がいく。
何度も言うが、ネガティブな自分に酔っている訳ではない。そう思いたい。
しかし、何時間、あても無く歩きまわったのだろうか。
僕はこの街を知らない。薬森市では無く“悦ノ宮(エツノミヤ)市”という街らしい。
薬森よりかは発展しているが、都会と呼ぶには程遠い、といった感じだ。
ソラハがこの街と、この街で有った—逃避してきたであろう出来事—を憶えていれば、いくらか場所の見当がつくのだが、
生憎“記憶喪失”という厄介なことになっているので、ただただ歩きまわるしかないのである。
ん?
「ソラハさ。」
「何ー?」
「その…逃避してきた事とかは……憶えてないの?」
「……うん。」
「解った。」
逃避してきた出来事は憶えている、等と言った都合のいい展開にはならない様だ。
つまりこの状況を名づけるのならば—袋小路である。
「ねェねェチミ達。」
背後から素っ頓狂な声をかけられ、僕等はびくっとして振りかえった。
そこに居たのは—背の低い爺さんであった。
「わしの曲さ、聴いてくれんね?」
ニタァと口角を上げると、黒い肌に刻まれた皺が更に深くなる。
「曲ですか??」
「そうやが。自作の曲だで。」
「へー!面白そう!」
何でソラハはノリノリなのだ。
明らかにヤバい人だろう。方言が統一されてないし。
緊張しながら耳元で「…ソラハ、やめとこう。」と囁くと、「なんで!?面白そうじゃん!」と張り上げた小声で答えられた。
「そうやんそうやん、だらそうやん。」
「……だらって何ですか。」
「おもろいっちゅうことじゃん!少年よ、勉強せよ!」
知らないよそんなマイナーな方言。
というか何なんだこの爺さんは。
唐突に話しかけられて唐突にお願いされて唐突に説教された。
「お?“そうやんそうやん、だらそうやん”…。バッチシ韻踏んでるばい!メモじゃのこれ。」
「ねー、お爺さんの曲ってさ、ラップなのー?」
「いんやぁ!全然!……あと“おもろいっちゅうことじゃん!”もGood!!やにゃあ。」
「おおー!そっかー!私的に“Good!!やにゃあ”も良いと思うよ!」
「そこに気付くとは、お嬢ちゃん天才かいな!きっと大物になりますたい!」
「ホントに?やったー!」
頭が痛くなってきた。
噛み合わないはずの会話が噛み合っている。
無駄に波長の合った会話を僕は呆然と聞き流していた。
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「いんやー、こんな爺に付き合ってくれるたあ、物好きなあ!」
「……あんたが強引に…。」
「ホント、ウイ君も物好きだね。」
「………。」
変な爺さんに捕まった僕等といえば、その変な爺さんの家に来ていた。
商店街の一角にあるレコード店のオーナーらしく、二階が爺さんの自室となっている様だった。
そもそも今時何故レコード、と思ったが、まだマニアが居るらしく、この商店街には二、三軒存在しているらしい。
店に入った時は古びた独特な匂いが僕等を包み、階段を上がると、店に並べたレコードと負けず劣らず、沢山レコードが自室に飾ってあった。
何故、このレコードも店に並べないのかとソラハが尋ねると、「趣味と商売は分けるタイプやちゅう。」とのことだ。
「ほうら、これがわしの自作の曲ぞい。」
レコード—ではなくCDを僕に差し出してきた。
CDのディスクにマジックで“大年金渇望シンパシー”と書いてある。
どうやら曲名の様だが、ジャンルが掴めない。
ソラハがCDを僕の手から取った。
「だいねんきん、かつぼうしんぱしー?どういう曲?」
「そのまんまぞ。」
「……消えた年金問題を歌ってるんですか。」
「正解や少年よ!ただわしは歌ってないとです!」
そういうや否や、明らかに型番が古いラジカセを取り出し、CDを入れた。
流れてきたのは—なんだこれ。
無秩序極まりなく、ボーカル部分は無く、電子音やらノイズやらが激しく変化して、交差して織りなす音楽。
統一性のなく、僕にはただ暴れている曲にしか聴こえない。
それを変な爺さん—と、ソラハが聴き入っている。
爺さんは解るけど、なんでソラハも?
「いいよこれすっごく!」
ソラハが声を張り上げて言うのだが、大音量の音楽のせいで聞きとりづらい。
「マジでかいなお嬢さん!わしの曲、気に入ってくれたん孫娘だけばってん、感動したわ!」
「そうなんだー!」
「……これどういうジャンルなんですか。」
「あーん!?少年なんか言うた!?」
「ウイくーん、なんてー!?」
しょうがないので、ラジカセの電源を切った。
「何するがか、少年よ!?」
「いや、煩いんで。」
「こっからええところぞ!?」
「いや、ご近所迷惑でしょうし。」
「……あ、そやな。前も怒られたけんの。」
渋々、と言ったところで爺さんが引きさがる。
「あの……もう帰ってもよろしいでしょうか。」
「うーん、まあ、ええばい。」
と、言った瞬間、ソラハのお腹が鳴る。
「お!?お嬢さんお腹すいとうとか!?」
「えはー、ばれちゃった?」
「んだら、わしがちょっくら買い物ば言ってくるたい、ちょいお待ちんし!もち、少年もな!」
「あ、私たちも行きます!」
爺さんは駆け足で階段を下り—る筈が転倒。
-
“ニュークスーパー”は前回—万引き犯を発見した時よりも少し混んでいた。
昼時は特に主婦が多い様だ。様だ、というのはこういう事にはどうも僕は疎いのである。
あまり自分でスーパーに等行かないし、他人の観察など怖くて出来ない。
観察、というのかは知らないが、僕は人を見るのが現在進行形で苦手である。
「お主らは何が食べたいのん?」
「弁当で良いです。」
無難な選択を僕がすると、ソラハが「うん、私も。」と同意した。
爺さんはというと鼻歌を歌いながら弁当の品定めをし始めた。
そういえば爺さんの名前を聞いていなかった。
「じい…お爺さんの名前はなんていうんですか。」
「おん?わしか?ひ・み・つ・じゃ!」
正直凄く腹が立つが、此処はぐっと怒りを胃袋で消化する。
というより秘密ってなんだよ。隠す必要あるのか。何か犯罪にでも手を染めているのか。
—そこまで興味はないので、深くは追求しない。
「これでええとか?」
爺さんが両手で持っている二つの弁当は“唐揚げ弁当”と“幕の内弁当”であった。
「どっちも好きだー。」
「お嬢ちゃんとは気が合うばい!お嬢様に格上げやちゅう!」
どうでも良い事を爺さんが言っている間、僕はある人影に気付いた。
—いや、気付いてしまった。
とてもソラハに言うと面倒なのだが一応—。
「ソラハ、あの子。」
「ん?………あぁっ!」
大きな声をソラハがあげると、その人物は此方に振り返り、心底驚いた表情をしている。
そう、例の万引き犯である。
もうしんどい思いはしたくない。教えない方が良かった。
「こらあああああああああああああああ!」
素早く万引き犯の所へ駆けだすソラハを見て、爺さんは何故か硬直している。
いや、ソラハを見てだろうか?
—と思えば万引き犯の腕をがしっと掴むソラハ。
「また万引きなんかして!」
「………。」
万引き犯の少女はソラハに腕を掴まれたまま俯いている。
垂れる短髪の間からは虚ろな目が窺え、スーパーの床ではない、もっと遠くを見ている様だ。
—僕は何故かデジャヴを感じる。
何処かで見たことがある様な、生気の抜けた目。
僕自身の目だろうか。
僕自身の目と似ているのだろうか。
それでデジャヴしたのだろうか—。
と、爺さんが千鳥足で彼女らに近寄る。
彼も虚ろで、また、顔面蒼白である。
「お…お前、何をしとったとか…?」
「………。」
爺さんからの問いかけを彼女が無視する。
目は虚ろで生気は抜けているが、無表情では無く、確かに爺さんの声は届いている。
「……さっき、この人が言ってたじゃん。」
少女のか細い声は今にもスーパーの雑踏に掻き消されそうで、聞き取るのが難しい。
「万引きだよ。……万引き。」
「ッ!?んなことせんでもわしに頼ればええ!金が無いのは仕方あらへん、大人に頼るたい!」
「もう嫌なんだよ!」
さっきの声とは裏腹の、雑踏を切り裂く様な声を少女があげ、その字の如く雑踏は切り裂かれ、消えた。
買い物客が一斉に此方を見ている。
「結局大人に頼っても私を厄介者みたいな目で見る!心から頼れる人はもう居ない!爺ちゃんも……結局は…!」
「何を言うがか!?」
薄々勘付いていたが、やはり孫娘とはこの少女の事か。
爺さんの曲を唯一—ソラハも好んだが—好いた孫娘だろう。
この少女では無いかもしれないが。
制服姿の店員さんがこちらへと歩み寄ってきた。
まずい、大事だ。
それを悟った少女は一目散に、また逃げ出した。
僕等と爺さんも駆けだすが、少女を追うためというよりかは、逃げるためという意識の方が強いだろう。
片手間に少女を追う雰囲気である。
「あっ……ちょっと!」
店員さんが声を張り上げ、僕等を制止させようとするが無念である。
僕等は店外の暑い空気にダイブしていた。
-
第11話:二つ現実が交差する(彼の現実、彼女の現実)
万引き少女を見失い、熱中症になりそうな僕等は爺さんの家に引き返した。
とりあえず水だ。水が飲みたい。その次にクーラーで涼みたい。
「ふー…大変だったねー。なんか……。」
ソラハがそう呟いても、今までの様に爺さんは食い付いてこない。
さっきの暑さに茹だってしまったのか。いいや、スーパーに居た時も顔面蒼白だった。
そう——万引き少女の存在を知ってからである。
僕は爺さんに問いかける。
「……さっきの女の子は……もしかして……。」
「んだ。……わしの孫娘ばい。」
暗いトーンで抑揚の無い声。予想は的中してしまった。
「あの子は……あの子が万引きをしている事は知らなかったんですか。」
「んだ……。」
そう応えると、爺さんは元気無く語り始めた。
「あの子の両親は離婚してるとよ。わしの馬鹿息子が奥さんをふってな。
……あいつは只の金目当てで結婚したらしい。金を吸えるだけ吸って、離婚すれば慰謝料をも吸っ て。ありもしない奥さんの浮気を訴えたんや。……んだことが罷り通るたぁ可笑しな世の中よ。
どうやってその訴えが通ったんかは知らへん。友人を奥さんの浮気相手に仕立てたり、まぁ色々出 来るやろ。晴れて離婚した夫婦に戸惑うのは……お前達が見た少女……楓や。」
「ちょっと待ってよ!じゃああの子はどうやって生活してるの!?」
「夫婦が離婚してからは、普通どっちかが世話せないかんけど……二人はそれを拒んだ。
奥さんも奥さんで“あんな凄惨な日々を思い出したくない”とかで放り出した。
でもまだそれは良い。良い方じゃ。馬鹿息子は楓になんて言ったと思う?」
いつの間にか独特の口調が消えた爺さんの話を、僕等は黙って聞く。
「俺と住みたいなら金を産め。と言ったらしい。」
一拍置いて、爺さんが続ける。
「どうすれば良いんか解らんかった楓は訊いた、“どうすればいい?”って。
馬鹿息子は言った、“大人の男に身体を売れ。”と。」
僕は堪らず「馬鹿げてる…。」と呟いた。
「本当に馬鹿げてる話だ。それでも意味が解らんかった楓は訊いた、“どうすればいいの?何をすれば売ったことになるの?”って。
…………馬鹿息子は、えげつない話を、一切オブラートに包まずに、ちゃんと身体が売れる様に、教えたらしい……。」
爺さんは声を震わしながら言う。
「その話を楓から聞いた時は……本当に可哀想だと思った……!」
大粒の涙が床に落ち、カーペットに染み込ませる。
「楓はわしの所へ逃げてきたんだろう。幼いなりに身の危険を感じて。
……すぐにわしは楓を保護した、短い生涯でも、それでも護りぬいてやろうと!
でも何故か!何故か楓はわしの元から……居なくなった……!」
顔をくしゃくしゃにして泣く老人の姿は、あまりにも虚しく感じられた。
-
あまりに凄惨な少女の事実を知り、少女は僕と似ている、なんて思ってしまった。
幼いながらも理不尽な世の中に腹が立ち、万引きをして反発するその様は、世間からしてみれば同情の的だろう。
世間の眼はいつだってそうだ。いつだって弱者に白い眼を向けて憐れむのだ。
きっと少女はそういった思念を感じていたのかも知れない。
「ところで……今はどうやって生活しているんですか。」
僕はそれが知りたくて仕方が無かった。
自分はと言えば、父親が出てから母親が僕の面倒を見てくれていた。
だが、少女はどうだろうか。
親で無くとも——血縁関係が無くとも——面倒を見てくれている人が居たのだろうか。
「それは——解らん。」
爺さんは、嫌な事実に目を向けるのが、直視するのが嫌だった様な口調で応えた。
本当に、死んでしまいたくなるほど、嫌な事実だと思う。
「わしは———。」
———“捜そうと思う。”
声こそ掠れて聞えなかったが、確かに口は、慟哭で歪んだ口は、確かにそう言っていた。
涙を流す目は、確かにそう言っていた。
ソラハは小声で何かを呟いたが、その後に、
「………じゃあ、今すぐ、行こう、……よ。」
と、途切れ途切れに切り出した。
「………すまんのう!本当にすまんのう!」
涙を流す老人は僕等に笑いかけ、気遣う姿に虚しく感じられる事はもう無い。
現実から目を逸らさない事への美しさ——ではなく、爺さんの果敢な勇姿に感動した。
ただそれだけで、理屈や説明は出来ない。
理屈塗れの感情よりも、もっと過透明な存在の感情である。
もっと、澄んだ水素の様な存在の感情である。
*
夏の夕暮れは少し熱気を余し、昼間の太陽が嘘のように静かになる。
何処か淋しい、感傷的になってしまうような空気感に、僕と、ソラハと、爺さんは包まれている。
夕陽に赤く染まった駅は人気が殆ど無く、人を捜すのに好都合な状態である。
何故この駅から捜すのかと僕が尋ねると、「楓はこの場所が好きやったき。」と、爺さんは土佐弁で応えた。
駅の前の、タクシーやらバス停やらがある場所をほっつき歩いていると、頬に冷たい冷気を感じた。
風じゃない、水だ。
冷気を感じた方に視線を移すと、噴水があり、これか、と思った。
「楓はその噴水が大好きで——ごく最近まで一緒に眺めてたんよ。」
「そうなんですか。」
「噴水を眺める楓は本当に心地良さそうで………わしも釣られて眺めてた。」
言葉をどう返すか迷う時は、大概ソラハがカバーしてくれるのだが、何故か大人しい。
彼女の方を見ると、背を向けて、夕空を眺めていた。
少しだけ流れる、冷気を孕んだ風が彼女の長い髪を揺らす。
——と、思えば彼女がこちらを振り向く。
「ん?ど、どうしたのウイ君?」
「……いや、何をしてるのか、と。」
「何でも無いよ。」
「……そう、か。」
傍から見れば、恋人、もしくは両想いの関係の男女の会話だが、それとは違う。
ソラハは見られていた事に戸惑い、僕は振り返られた事に戸惑っているだけの、それだけの会話だ。
「——夕陽は、やっぱり綺麗じゃのう。」
「そう、夕陽がキレーすぎて私、ぼーっとしてたの!」
取り繕うように説明するソラハ。何かを隠しているのだろうか。
そんなことはどうでもいい。
捜索に戻らなければ。
「もう此処には居ないでしょうし……行きましょう。」
「ん、そうやな。——くらならんうちに捜さなな!」
爺さんはそう明るく切り出し、「お嬢さんも、もう行くばい!」と言うと。
ソラハは何か考え事をしているようだった。
考え事に耽っているのだろうか、楓ちゃんに想いを馳せているのだろうか。
彼女は小さく、「うん」と呟いた。
-
高架下の廃材や錆びた自転車、フェンス、それらが夕陽に照らされる。
日蔭のコンクリートは頑として色を変えようとしていない。
まるで朽ちた体で社会に抗う人間じゃないか、いや、なんでもない。
様々な場所を巡って高架下へと着いたのだが、依然少女は見つからない。
もしかしたら、この悦ノ宮市に居ないかもしれない。隣の薬森市へと逃げているかもしれない。
よく考えなくても無謀だということは解っていた。
現実は小説や漫画の様にご都合主義的展開はやってこない。
「ウイ君は——少女を見つけたい?」
「何を今更。」
「本当はめんどくさいんじゃないかなって思って。——ごめん。」
ソラハの問いかけはさっきから何処かおかしい。
まるで少女を捜すのが——見つけるのが嫌である様な。
何故だろうか。
いや、僕は、僕も薄々気づいている。
それは言う事、思う事すら憚れるような、そんな事実だ。現実だ。
違う。何が事実だ。何が現実だ。
まだ推測にすぎない“それ”を肯定するなんて諦めだ。
しかし、もしそれが——現実だとしたら——“現実直視”の対象だとすれば——。
そしてそれが世界によって肯定されてしまったら——。
彼女は彼女の精神を保てるだろうか?
「私、ちょっと違う所捜してくるね。」
「えっ?」
「もう暗くなりそうだし、やっぱりここは手分けして捜すパターンだよ。」
駄目だ、絶対ソラハを一人にさせてはいけない。
彼女はゆっくりと陽が落ちるように——僕等が知らぬ間に——消えてしまうかもしれない。
そんな焦燥感に襲われた。
「駄目だ!」
僕は考えるよりも先に発言するタイプであっただろうか。
ソラハは肩をビクッと震わせて、「どうしたの?」と落ち着いた様子で尋ねてくる。
落ち着いた様子?違う、虚ろなだけだ。
「…………あの、お爺さん。」
「ん、どしたとか。」
「その、ソラハと……。」
「合点承知けえ!」
「え?」
何故、すぐに解ったのですか、と問いかけようとすると、
「わしはお嬢ちゃんとランデブーやのう。1時間後にここで落ちあおうじゃん。」
と、耳打ちをしてきた。
どうしてもソラハを独りにするのは危険だ。
以前の様に衝動的に自殺を試みるかもしれない。
この疑似世界でも死ぬことが出来る、と知ったソラハを止める自信は無い。
それに、爺さんと一緒ならソラハは元気を取り戻すかもしれない。
——あくまで僕はソラハを“他人”だと思っているが、死にそうな顔をした人間を放っておく程、屑ではない。
そんなことに思考を巡らせていると、夕陽を反射していた筈の廃材達が藍色になっている事に気づく。
——もう陽は落ちるのか。
並んで歩きだした老人とソラハを見て——僕の勘は現実となった様な気がした。
-
第12話:少女捜索に対し、僕はブランコを漕ぐ(揺れる揺れる炎)
——もう、身近な人を失うのは嫌だった——。
薄暗さに消されていく彼女の後ろ姿を見て、僕は虚無感に包まれる——。
——————————————。
僕の家がごうごうと燃え盛り、熱気が僕の身体に纏わりつきます。
野次馬は好奇の目を僕に向け、そして、心配する自分を演じている様に見えました。
幼い僕をいたわる自分に自己陶酔している様な——そんな気がしました。
僕は世界を殺してしまいたかったんだ。
放課後の教室で、独り、世界の殺し方を黙々と考えていました。
——世界を殺すには、僕自身が死ぬしかないのかな——。
結局、それしか思いつきませんでした。
それは僕が小学生だからではなく、人間だからなのです。
「僕は僕を殺す前に、何か仕返しをしたかったんだ。」
そう独りごとを呟いて、僕は僕の家に火を点けました。
父親のライターはとてもあっさりと火を灯し、とてもあっさりと炎が広がっていきます。
そのライターは父親の人格を模したように感じられました。
————お母さんに罪は無い。
全てあの父親が悪いんだ————。
でも、もう、遅いんだ。
僕は僕を殺してしまうんだ。
「ヨウイチ!」
不意にお母さんの声が後方で聞え、僕は振り返ります。
お母さんは何度も何度も涙を流し、「ごめんね」と何度も何度も叫びました。
“お母さんに罪は無い”
そう言いたかったけど、煙のせいで上手く声が出せません。
——僕は何ヶ月か前に、廃墟の病院で父親に暴行を加えられました。
父親は僕の存在を否定したかったのでしょうか。
興奮のあまり、声が切れ切れな父親は確かにこう言っていました。
“お前なんかなんで産まれてきたんだ”
“お前なんか産むつもりは無かった”
——小学生ですが、子作りとは、気持ちよさの延長線上だと、既に知っていました。
恐らくですが、父親はお母さんの事を、気持ちよさの体験できる物、としか扱っていなかったのでしょう。
そして僕は“生”を与えられてしまったのです。
父親にとって邪魔な存在であった僕に対し、腹を立て、暴行を加えたのです。
僕でさえも、気持ちよさを得られる対象として。
————その思い出を焼き払いたかったのです。
でも、お母さんを傷つけるつもりは無かったな————。
僕を抱き締め、子供みたいに泣きじゃくるお母さんは、とても————可哀想でした。
——————————————!
ソラハの後ろ姿は既に見えなくなっていた。
たかがソラハは他人だ。
それでも——失うつもりは無かった。
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ソラハの現実は、まだ現実だと決まった訳ではない。
だが、それに僕が触れる権利は無い。
街灯が無い道路に出た。
民家が散らばった様に左右に存在しており、ひと気は無い。
ゆるやかな斜面を歩いていく。閑散な道を歩いていく。
足で地面を踏む度に、砂利が小さく鳴く。
コンクリートで出来た急な下り階段があり、それは公園へと続いていた。
いや、一応遊具はあるものの、敷地面積から“遊具のある空き地”といった感じだ。
狭いなかに、滑り台・ブランコ・ひとつの街灯・ベンチ・公衆トイレ・時計台が設置されている。
「……………。」
何故かブランコに揺られたいという衝動に駆られ、僕は階段を下る。
街灯がひとつしか設置されていないため、足元が暗い。慎重に足を運ぶ。
公園の砂に着地すると、僕は胸を撫で下ろした。
ブランコに腰を掛ける。
細く息を吐いて、時計台に目をやると『8時32分』を示していた。
夏の夜は日が長いため、暗くなりだすのは大体この時間帯だろう。
膝の間接を少し動かすと、ブランコは案の定揺られる。
すると勢いがついていき、僕はブランコをこぎ始めた。
——揺れるたびに体に触れる風が心地いい。
現実逃避をするかのように、僕は揺られ続ける。
——いっそのことなら直ぐに少女を発見出来たら良いのに——。
こんな苦しい思いを何故、僕がしなければならないのか疑問に思えてきた。
少女が早く見つかってさえくれれば、きっとこの疑似世界は幕を下ろすだろう。
さっさと終わって欲しい。
だがソラハはどうなのだろうか。
穢れた現実を肯定されたくないであろう彼女にとって、それは正解なのだろうか。
どのタイミングで“現実直視”が終了したと見なされるのか、僕には解らない。
自身で肯定する瞬間だろうか、僕には解らないが、早くしてほしい。
——ソラハがさっさと現実直視さえしてくれれば、この世界は終わるのだ——。
何を馬鹿な事を考えているんだ。こんな自分など死んでしまえば良い。
————邪念を振り払おうとして、————勢いよくブランコをこぐ————
こいでもこいでも————邪念は残像として————僕に纏わりついてくる————
————こんな自分が————僕は大嫌いだ。
-
足を地面に突っ張ってブランコの揺れを止め、僕は溜め息をひとつ吐いた。
もう考えるのは辞めよう。
今は少女の捜索だ。
時計台に視線を移すと、丁度9時を示していた。
あと30分、出来るだけ捜してみることにした。
取り敢えず公衆トイレに入り、用を足し、例の階段を上り、公園を後にする。
来た道の反対側を行こうとするが、余りにも暗いため、来た道を戻ることにした。
僕は慎重な性格で、いつもそれが仇となる。良い結果を残せたためしが無い。
そのまま高架下に戻るのも癪だ、と訳の解らない事を感じ、僕は空を見上げた。
空には——まるで絵画の様に無数の星々が輝いていた。
何故ブランコを漕いだ時に気が付かなかったのか。
自身の悩みで精一杯だったのだろうか。視界に入っても気に留めなかったのか。
僕の悩みなど、宇宙の一片にも満たない事に気が付き、眼窩から涙が零れ落ちた————。
——そんな訳あるか。
例え宇宙の一片に満たなくとも僕自身という宇宙には、一片どころかその悩みで満ちているのだ。
現状が変わるはずもない。
“宇宙の中に存在している”という事よりも“僕の中に存在している”悩みを意識するのが妥当だ。
これも厭くまで“僕の中に存在している”妥当なのだが。
そんな理屈をこねながら歩いていると、もう高架下の付近に居ることに気付いた。
結局、今日は見つけることが出来なかった——。
現実直視を拒んでいるであろうソラハからしてみれば、発見して欲しくなかっただろう。
しかし、僕は——おそらく、早く発見したい思いで一杯だ。
どちらの気持ちを尊重するか、天秤がブランコの様に揺れ動く。
さっきの様に“僕の中に存在している”気持ちを尊重するか?
だが、比較する対象が人間ともなると、決め難い。
——遠方に、高架下にて立つ——“二人の”——人影が見えた。
——今日はあちら側も発見できなかった様だ。
僕は少し小走りで彼と彼女の元へと駆けだした——。