ワザップ!フォーラム
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第一幕立ち上がる水兵
戦艦セバストポリの水兵達は、甲板の上から、また通路から、窓から、
黒海の遠くにぼんやりと形を見せる陸地を眺めていた。
離れているのか近付いているのか、良く感じが掴めないが、船は動いている。
「持ち場に付け!」
士官が叫ぶ声を聞いて、皆散って行く。
右舷の少し高くなった場所に残るのは監視役のレオナードとアスリだった。
「なあアスリ……」
「言いたい事は分かるよ」
アスリは水兵服の上からレオナードの背中を擦ってやった。
昨日、港で士官連中の買出しをやらされたレオナードは、帰ってきたら遅いと言う理由で
背中をニ度も強く足蹴されたそうだ。
彼だけでなく、士官に酷い扱いを受けている者は多いに違いない。
アスリは、ただまだその被害を受けていないだけに過ぎないのだ。
「ネルチュクは士官の違法行為を咎めて一度蹴られて、その次の日にニ度殴られたそうだ」
「……」
船が止まったのと同時かどうか、アスリの擦る手も止まった。
黒海、テーンドル湾の沖合い停泊地にて、戦艦セバストポリは停泊した。
ここで一晩過ごし翌日武装の試験を行う事になっている。
艦橋では、貴族出のメフェーニン艦長がカイザル髭を撫でながら、技術士官のやる気の無い報告を聞いていた。
視線は士官ではなく、艦橋の窓の先の空を向いている。
「……で、この艦がどうしろと?」
「司令部はぁ、どうも四十口径連装砲の試験を求めれ、求めております」
「バスボア、その通りにやれ」
「兵站部門から、補給が不充分ではないかと言う声が上がっておりますが」
「どうせ三日で済む事だぞ?それに水兵なんて奴らは食うだけ食う、たまには節制でもすれば良い」
メフェーニンもやる気のある様な素振りは見せなかった。
それより、新聞の革命騒ぎの記事を読みたくて仕方ない。
自分の家が下賎な連中に焼かれちゃたまらぬと思いながら、指揮台の上の新聞に手を伸ばした。
周りの士官は水兵たちを怒鳴り飛ばした話を面白おかしく語っている。
—— ◇ ——
昼食の時間、水兵達は驚いた。
「何だこれ」
「パンにカビが生えてる!」
狭い食堂で、水兵達の動揺の声が広がった。
また、自分の寝床で食べようと戻っていた水兵達も戻ってきた。
「炊事係!」
「俺達はただ配っただけだよ!俺達も同じものを食わされる!」
「とにかくどう言うこったよ!」
前掛けをした炊事係達も、両手を上げながら不満をあらわにしている。
シリャウギンと言う士官が騒ぎを聞いて食堂に入って来て、それで、決まった言葉を口に出した。
「何だ!何騒いでる阿呆共!」
「少佐!パンにカビが、スープも味が変で……」
シリャウギンは机の上に視線を一度落としたが、直ぐに水兵達に戻した。
「こんなもん食えるだろう!何を騒ぐか!」
「そ、そんな」
ネルチュクと言う水兵が声を上げた。
「前の時はさすがにこんな事は無かった筈です!おかしい!」
「何ぃ!陛下より下ろされた食料を……」
シリャウギンはネルチュクの所に飛んで行こうとしたが、
食堂は狭いし水兵は多いしネルチュクは奥の方に居たしで、留まった様だ。
「ふん、お前の顔覚えて置くからな……え!覚えるまでも無いか、ネルチュク!」
「……」
「阿呆共!食いたくなければ食わなければ良いさ!ただそれで腹が減って仕事をしないてのは許さんぞ!」
シリャウギンはそう言ってから、制帽を正して食堂室から出て行った。
彼は水兵の食事なんかどうでも良いのだ。
士官には士官の食事が有る。
ネルチュクの肩が水兵達にポンポン叩かれた。
前に一度殴られニ度蹴られながらも、勇気ある行動を見せたのだ。
彼は水兵達の中では英雄の様な存在だったが、しかし誰もネルチュクの真似をしなかった。
「一体誰がこの船を動かしてるってんだ」
ソラウニンはそう言って、仲間から賛同する言葉を得られたけれども、
しばらく考えて何か怖くなった。
何か、と言うだけで、それが実際何なのか分からない。
—— ◇ ——
捨てられる食事を見るに、水兵の殆どはパンもスープも食べず飲まずだった。
この調子では夕食も大変そうだ。
「今度のは酷いぞ……」
機関部の、地獄の様な音の中で、ネルチュクは一人つぶやいた。
周りの水兵達は仕事を続けているが、初日だと言うのに疲れ切った顔をしている。
皇帝の軍隊がモスクワで市民に手を出した一月のあの日から、
ロシアのどこでも虐げられていた人々は新しい何かを求めて戦っているし、
貴族層は一部を除いて権力を維持しようと醜く踏ん張っている。
兵士としてネルチュクは市民を攻撃したくなかった。
遠く離れた場所では日本と戦争をしているけれど、それも戦いたくなかった。
だけれども命令があればそれが全てになる。
「だが……そうだ、ソラウニンが言ったとおり、俺達が」
そこまで言って、ネルチュクの口は止まった。
こんな事を思うのも口に出すのも初めてだった。
「ああ、何もありません様に」
ネルチュクは、とにかく悪い事が何も無ければ良いと思った。
でもまたその次の瞬間に、先ほどの様な思いがこみ上げて来るのだった。
「……何故だろう」
(続く)
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夕食の時間になると、皆暗い顔をして食室へ向かった。
甲板から、機関室から、砲塔から、艦橋から。
食堂自体が小さいので食堂で食べる者はそう多く居ないけれども、
皆、色々器を持ってやって来る……そして焼き魚が盛られた。
一応焼いたおかげで、昼食ほど酷くは無かったが、それでも変な味がした。
生臭い臭いも酷い。
「うえっ」
若い水兵なんて吐き出す者も居た。
その時、今度は騒いでも居ないのにシリャウギンが入って来た。
後ろには何人か士官もついて来ていた。
「ネルチュクは居るか」
「……ここに居ます」
水兵達の視線がネルチュクに集まった。
何をされるのだろう、と不安げな視線で。
「来い」
ネルチュクは一人で、シリャウギンの所へ向かった。
すると、皆の前でネルチュクは殴られた。
「あのままで済むと思ったか!バカめ!」
「……」
後ろの士官たちは笑う者や無表情を貫くものや様々だったが、
水兵達の表情は一貫して硬く、そして憎悪の感情が篭っていた。
「今度、少しでも反抗したら艦長の許可も取らんで撃ち殺してやるからな!」
「……」
シリャウギンたちは出て行った。
しばらくネルチュクは突っ立っていたが、我にかえって自分の居た場所にもどった。
「ネルチュク、大丈夫か」
「ああ、レオナード……気にしないでくれ」
噂を聞いて、他の場所に居た水兵達もやって来た。
「殴られたんだって?」
「非もねえのに、当たり前の事を言ったのに、ひでえ事しやがる」
ネルチュクはあまり言葉を発さず、硬い表情のままだった。
—— ◇ ——
夜中、水兵達は共同船室で寝ている。
士官のセバネレンが見回りでやって来た。
薄暗くハンモックが連なる中を、舌打ちしながら奥へ奥へと進んでいく。
「クソ水兵共、ひでえ面晒しやがって……おうっ」
床近くに吊るされているハンモックに引っかかって、セバネレンはよろめいた。
引っかかられた方の新兵は驚いて起き上がりはしたものの、状況が掴めていない。
「この……アホッ!」
顔目掛けてセバネレンの唾が飛ぶ。
「うっ……」
「くたばれ!クズめ」
呆然としている新兵や騒ぎで起き上がった他の水兵をよそに、セバネレンは大股で
その場を過ぎ去っていく。
「ううう……」
新兵が顔をうずめて静かに泣き始めた。
普段なら他の兵士から泣くなと怒られそうな物だったが、今回は違う。
皆、新兵の周りに集まり、慰めてやろうとしていた。
ネルチュクが拳を振り上げて何かを叫ぼうとした。
「我慢ならないっ……ううむ」
あと二日の辛抱と言う言葉が浮かんだ。
だが、あと二日の後だって、あの士官達は横暴を極めるだろう。
自分達だって……。
「ネルチュク、どうしたもんだろう」
「……いや、今日は寝よう、今日は……寝るだけ」
皆、それ以上にする事を知らなかった。
寝るしかない、明日には何が有るか。
新兵は泣き止み、そして小さな声でお祈りを始めた様だった。
「キリスト様、御守りお願いします、おまもり……」
それを聞いていたネルチュクは、新兵の肩を叩いた。
真っ赤な顔で振り向く新兵に、ネルチュクは静かに首を振る。
「……?」
新兵は不思議な顔をした。
ネルチュクはそのまま自分のハンモックに戻って寝始める。
「本当に何か俺達を守る者があるとしたら、こんな事には……」
聖職者は、耐える事、敬う事だけを伝える。
そして耐えるべき、敬うべき対象は上へ上へ……皇帝!
自分の運命や精神を守るのをキリストに任せるのは、つまり皇帝へ服従し続けるのと
殆ど変わらないのだ。
「自分を守るのは、自分達の腕、共同体の力……」
キリストのイコンを掲げながら撃たれた市民達の例がある。
もし、彼らが鋤や鍬、棍棒、とにかく何でも身近な農具や武器を持って行っていれば……
だがもうどうにもならない事だ。
新兵はもうお祈りを止めた様だった。
(続く)
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大きく警笛が鳴った。
朝が来て、水兵達は急いで起き出しテキパキと身なりの準備を始めたが、
急に皆気づいた様な顔になって、動きが遅くなる。
ネルチュクが甲板に出ると、嫌な臭いがした。
「持ち場につけ!」
上のデッキから士官が怒鳴りつけるが、ネルチュクは従うふりをして、
数名の水兵と共に臭いの元を探る。
「……こ、これか」
「えっ」
牛肉の塊が甲板の上で干されていたが、半分腐りかけていた。
人がどんどん集まってくる。
「おい、これを食わされるのか」
「嫌だ、食べたくない」
「み、見ろよ」
害虫が、牛肉の塊の上を這っていた。
騒ぎを聞いて士官達もやって来た。
「何をしている!」
「これを見てくださいよ!」
「ふん、肉がどうした」
「腐って、虫が湧いてます」
「それがどうしたって」
「ど、どうしたって、これを食わせる気なんでしょう、こんなの……」
「お前らの飯の事まで気にするほど暇じゃない!とっとと解散して持ち場にもどれ!」
水兵達の顔が歪む。
そこにようやく船医のカルノフがやって来た。
だが、カルノフはルーペで肉を暫く見ただけだ。
「これはただの蛆虫だ、塩水で洗い流せば良い」
「ただのだって?洗ったってこんなの食えるか!」
掴みかかろうとする水兵の様子を見て、セルギネフと言う士官が、自慢の拳銃を取り出した。
「とっとと解散しないと……」
バンと銃声がして、ボチャンと音がして……飛んでいた鳥を打ち落としたのだ。
水兵達は恐ろしくなって逃げ出し始めた。
そして士官、特にセルギネフの笑い声が響く。
—— ◇ ——
朝食は、パンと魚の缶詰だけだった。
ネルチュクは、先ほどセルギネフの脅しに屈したのが悔しかった。
よくよく考えれば、水夫が皆で力を合わせれば、連中なんて……。
「ネルチュク、たしかに嫌な事だが、顔をしかめちゃいけない」
「サバロフ、なあ……いや、何でもない」
サバロフは、ネルチュクの目をじっと見つめた後、水夫の寝床を出て行った。
戦艦セバストポリは少し沖合いへ移動し、砲弾の点検等が始まる。
そして、太陽は上へ上へ……。
艦橋では、セバストポリ付きのデネン神父が、メフェーニン艦長と話し込んでいた。
長く伸ばした髪、荒く伸ばした髭、カラスの様な黒い服。
「まったく、最近の平民達は、加護されし皇帝陛下への忠誠も忘れ……」
「この艦も同じ様な物かも知れん、些細な事で騒ぎ出す」
そこに、セルギネフがやって来た。
「艦長、お伝えしたい事が」
「ん、何だ」
「また兵士達が食料の事で騒いでおりまして」
「あいつらは一体何様のつもりだ、何のお陰で生きていると思ってる」
デネン神父も同調して肯く。
「まったくですな」
「それで、如何しましょう」
「今度何か有ったら適当に選び出して、みせしめに殺せ」
「宜しいのですか?」
「反乱が起きるよりは良い、司令部からもそう達しが来ている」
「分かりました」
セルギネフが戻った後、デネン神父とメフェーニン艦長はワインで乾杯した。
「セバストポリ、訓練、そしてニコライ陛下に祝福を」
「栄光有れ!」
デネンの持った十字架が鈍く光った。
グラスが触れ合う音と同時に、食堂では昼食の配膳が始まっていた。
そして、あの腐った牛肉を使った焼肉が出てくる。
皆、分かっていた事だったし、配膳係も出すのを躊躇う程だった。
だが、いざ出ると、やはり皆が怒り出した。
「こんな物食えるか!」
「くそったれ!」
机がどんどん叩かれ、皿が揺れる。
衝撃で、焼けた蛆虫が皿から転がり出た。
ネルチュクは、皆に料理を食べない様に呼びかけたし、当然周りはそれに従った。
「もう我慢ならない!」
水夫達は高潮する。
拳が宙に振り上げられ、大声が飛び交うのだ。
「もう嫌だ、腐った食事!人を人とも思わぬ扱い!……!」
そこへ、見計らった様に士官達と憲兵、諂う水兵が現れた。
「あの辺りの連中を捕まえろ」
水兵達は従わないで動かず、仕方なく憲兵が動き出した。
すると、何人かの水兵が立ちはだかる。
「何が正しくて、何が間違ってるか……」
「黙れ!邪魔した奴も捕まえろ!」
その言葉に、さらに何人かの水夫が怒った様に立ち上がった。
その瞬間、銃声が響いた。
セルギネフが天井に向けて撃ったのだ。
「従わぬ者は殺すぞ!」
ネルチュクと、十数名の水兵がしょっ引かれた。
残った水夫達は、銃を向けられながら呆然とその様子を見るしかなかった。
(続く)
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昼食の時間が済んだ後、水兵達は待機を命じられた。
だが昼食と言っても、誰もあれを食べてはいない。
レオナードは水兵達の寝床であるハンモックに伏せて、しばらく黙っていた。
前には麻の荒い生地、背には鉄の冷たい天井。
「……」
これからどうした物だろうか。
普段隣のハンモックであるアスリと話をしようとした。
「なあ、アスリ」
だが返事は無い。
「……!」
彼も捕まったのか。
レオナードはバッと起き上がって周りを見たが、周りに居る何とも言えない顔をした水兵達の中に、
日頃見慣れたアスリの顔は無い。
「ああ!クソッ!」
「どうした?レオナード?」
「アスリが……」
その時、鉄のドアが開いた。
そして数名の士官が入ってくる。
シリャウギンが前に進み出て、キンキン声で喚いた。
「全員外に出ろ!」
水兵達は、皆顔を見合わせた。
—— ◇ ——
前方甲板に水夫は整列させられた。
砲塔は中空に向け上げられており、甲板に影を落としている。
「……まさか、処刑か」
「俺たちではなく、さっき捕まった彼らがか」
「整列!」
憲兵達がすぐさま現れ、ライフルを持って並んだ。
そして後ろから、ネルチュクを先頭にして、先ほど捕らえられた水兵達が連れて来られる。
「何だ!何をする気です!」
「これより反抗的兵士の処刑を行う!」
「なっ……」
「帆布を掛けろ!」
一人の水兵が、提督用の出入り口から逃げ出そうとしたが、セルギネフに阻まれた。
「お前等みたいなクズにここを使う権利はない」
銃剣で先に追い立てられ、さらに憲兵達が嫌な顔をして帆布を掛ける。
逃げられなくなった水兵達。
帆布の中で、ネルチュクは皆に、拳を握る様に言った。
「皆、拳を握ろう」
「……そりゃどうしてだね」
「意味は……有って無い様な物だよ、でも、怒りを一分も表現しないで死ぬのは敗北だ」
メフェーニン船長は上部デッキの上から様子を見下ろしている。
横にはデネン神父が神妙な顔をして並んでいた。
バロキェフ副艦長が真っ赤な顔をして、憲兵達をもう一度並ばせた。
「装填!」
レオナードは、目の前で起こる事を黙って見るしかない。
憲兵達は銃に弾をこめ始めた。
銃剣の付いた後装銃が音を立てる。
「……」
「構え!」
帆布を被せられた、ネルチュクやアスリや、不幸な水兵達は、大きく揺らいでいた。
だが、帆布の間から、水兵達の握られた拳が見えた。
撃つ方の憲兵達は、汗を垂らし、震えている。
「……!」
レオナードの喉に、何かがこみ上げた。
ゲロでも、声にならない叫びでもない。
「諸君!相手を良く見ろ!」
バロキェフは叫んだ。
「撃てっ!」
「やめろっ!」
憲兵達は、構えたまま動かない。
「撃て!撃たんか!」
「本当の相手は誰だ!罪のない水兵か!汚れた連中か!」
水兵達が、レオナードを見つめる。
そして、憲兵達が、ただの一発も撃たず、銃を降ろした。
「何をしている!」
バロキェフは今度は憲兵達に詰めより、銃を奪おうとした。
だが今度は憲兵達は銃を放さない。
「嫌だ!撃ちたくない!」
「何ッ!こら!」
艦長はこの異常な光景を見て、どう言う事か把握し切れなかった。
「な、何が起きている」
「水兵が処刑を妨害したのでは……」
「黙れ!クソ共!反逆者を殺せ!こらっ!」
レオナードが叫んだ。
「立ち上がろう!さあ!戦うぞ!」
水兵達が一斉に士官に立ち向かった。
「うわああ!」
「行けっ!」
憲兵達も水兵達も拳と銃を振り上げた。
そして直ぐに、処刑される筈だった水兵達も帆布をはずして抜け出した。
何発か銃声が響き、戦艦セバストポリの反乱が始まったのだ。
(続く)
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水兵達は憲兵達の銃を持って、士官達に襲い掛かった。
「この野郎!」
「うわああっ!」
上部デッキではデネン神父が十字架を掲げて怒鳴った。
「愚か者共に天罰を」
しかしもちろん水兵達に雷も津波も地震も襲い掛からない。
メフェーニン艦長は怯えて艦橋まで逃げてしまい、バロキェフ副艦長は撃ち殺された。
士官達は甲板から船内まであちこち逃げ回ったり掴み掛かったりしながら
反乱を起こした連中相手に戦うが、到底叶わない。
次々捕まるか殺されるか、命乞いをしても普段水兵に辛く当たっていた者は撃ち殺された。
水兵から憲兵から、船内売店の売り子から掃除夫まで皆が立ち上がり、
権力に立ち向かう、こんな事を士官たちは想像出来たろうか?
船内に機関の仕事などで残されていた水兵達も、反乱が起きた事を知ると
すぐさま職務を放棄して加わった。
武器庫から次々に銃や剣が取り出され、それが士官達を追い詰めていく。
だが、甲板では……。
—— ◇ ——
「ウアアアッ!」
「くらえっ!」
カルノフがアスリに銃底で殴られ、甲板から落ちる。
右舷の通路ではシリャウギンがサーベルを振りながら水兵達に突っ掛かって行ったが、
憲兵達の射撃により頭から足まで何十発と撃たれ、真っ白な軍服は紅に染まった。
騒乱の中、右舷の端でセルギネフとネルチュクが掴み合っていた。
「この野郎!くたばってしまえ!」
「何をっ」
セルギネフに銃を使わせてはならない。
彼が拳銃に手を出せば、ネルチュクは一たまりも無いのだ!
銃声が何度も響く。
悲鳴と波しぶきの音だけが何時までも続く。
「えいっやあっ!」
「ぐおおっ」
ネルチュクが、手すりの縁に押し付けられた。
ここから落とされたら、戻れやしない。
「ぬおおおっ!」
セルギネフの顔に頭突きをかます。
水兵帽に、血が迸った。
「うがああああああ!」
血が、鼻や口から吐き出されている。
奴を倒すには今しかない。
しかしその時、ネルチュクは一足遅かった。
セルギネフは血みどろの中でありながら銃を腰から取り出し、
ネルチュクの胸に撃った。
「うぐっ」
「ええええいっ!」
ネルチュクは、ゆっくり後ずさって、そのまま縁から海に落ちてしまった。
「あっ!ネルチュクが!」
レオナードは遠くからその様子を見付け、駆け寄ろうとしたが、
また銃声が響いた。
「……セルギネフか!」
「ウグオオオオオ!クソ共めえええ!」
しかしレオナードは恐れる事無く、素早く襲い掛かって、短剣で一突きにした。
デネン神父は砲術技師らと共に連絡ボートで船を抜けようとしたが、
ボートの置いてある下部通路への階段の手前でアスク達に阻まれ、立ち往生した。
「逃げるなあっ!」
「うわあっ……ひい!」
銃弾がデネンの脇腹に撃ち込まれた。
それでもデネンは十字架を出し、アスクの前に突き出した。
「うぐぎぎぎっ……お、お前は神が恐ろしくないのか!」
「クソ食らえ!」
もう一発、銃声がした。
デネンは頭部を撃ち抜かれ、下部へ転がり落ちていった。
だがそれでもアスクは復活するのではないかと有らぬ心配をして、もうニ、三発撃ち込んだ。
そして血塗られた十字架は、手から滑り落ち黒海へ落ち、そのまま見えなくなった。
—— ◇ ——
警笛が高く鳴り渡る。
メフェーニンの死体が掲げられ、また手足を縛られ神妙にしている士官達がデッキに転がされ……
反乱の成功をそれら全ての風景が表していた。
だが、ネルチュクの引き上げられた死体だけは違った。
甲板の一番広い場所に安置された彼の死体の周りに人が群がる。
怪我を負った者は数多く、気絶した者も医務室で手当てを受けたりしているが、
死者は彼ネルチュクだけだった。
それも、反乱の象徴者がである。
ネルチュクの冷たくなった体を水兵達は整えてやり、そしてレオナードが叫んだ。
「皆……ネルチュクの為に……祈るんじゃない!叫ぼう!勝利を!」
「全土で虐げられる者の為にも!」
ラッパの音と、ネルチュクの名と共に、ロシア国旗が降ろされ、赤旗が昇った。
それは、流された血と、民衆や兵士の怒りを思い起こされた。
もう、ただの反乱ではない。
「我々は、公平で、弱者の何人も虐げられぬ世界を、平等な世界を目指して進もう!」
「戦おう!」
「そうだ、戦おう!全国の労働者や兵士と、協力するんだ!万歳!」
論理的な言葉は誰の口からも発されない。
ただ、怒りと希望だけがセバストポリを包んでいる。
「万歳!」
戦艦セバストポリはウラーの掛け声に揺れた。
黒海の遥か向こうで、太陽が傾いていく。
(続く)
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第二幕オデッサの騒乱
反乱、革命は成功した。
戦艦セバストポリは、ロシア黒海艦隊の所属ではなくなった。
戦艦セバストポリは……あえて所属をつけるなら「水兵共同体」の物になり、
そして共同体と革命を象徴する物は、掲げられた赤旗だった。
艦内では直ぐに共同体の体制が整えられた。
司令部、兵站補給部、捕虜担当、戦闘時の割り当て……
それらは、主を変えた艦橋やサロン室において決められていった。
メフェーニンがやる気の無い指示を出し、士官達が騒いでいた場所は今、水兵達で埋っている。
レオナードは司令部の一人になり、艦橋に付く事に。
だが、もちろんメフェーニンの様な事はしない。
「皆、頑張ろう」
「おお、同志レオナード」
艦橋にはもう威張り腐った士官の一人も居ない。
司令部などの区別はあっても、全ては同じ水兵だった。
「さあ、動き出すぞ!」
司令部や航海士が艦橋に揃う。
入って右を向いた方の壁には、メフェーニンを射殺した時の血の跡がこびり付いていた。
「オデッサに向かおう」
「迎え入れてくれるだろうか?」
「まさか、出て来たセバストポリの軍港には戻れない」
「確かゼネストが行われているのでは?」
電信技士も反乱に協力したから、黒海艦隊は今の所は反乱に気付いて居ない筈だが、
それでもどうなるか分からない、他にも黒海で訓練している艦がいる。
それに、とにかく補給を受けなければならない。
アスクが伝声管で戦艦中に伝えた。
「進路を北に取れ!これより我がセバストポリはオデッサへ向かう!」
艦が動き始めた。
「巡航速度で午後七時頃には到着出来る筈だ」
「一旦沖合いで様子を見た方が良いだろうか」
「オデッサに艦隊は居ない筈だが……」
水兵達は、ぎこちなくも、確実に共同体を前進させていた。
—— ◇ ——
不味い食事、劣悪な環境、人権のかけらも無い扱い。
数時間前はこれらがまかり通っていた。
だが、今はもう違う。
不味い食事は別として、劣悪な環境はある程度改善され、扱いも勿論一万倍良くなった。
赤旗の下では、全てが良くなると水兵の誰もが思った。
ネルチュクやレオナードがそれを示してくれている。
「うーっ、出してくれー!」
捕虜になった士官達は便所や物置などに押し込まれていた。
こうでもしないと、何が起きるか分からない。
だが、司令部の命令により、閉じ込めるだけで手を出してはならぬ事と決められていた。
それでも……
「おい!俺達が居なくてこの艦が動かせると思ってるのか!クズめ!」
「……」
物置の中から、威勢の良い、悪く言えば立場を弁えない言葉が聞こえる。
見張りのイワンコフは静かに溜息をついた。
「お前らは船の手足なだけだ!頭を欠いて、何が出来ると言うのだ!」
交代の時間が来た。
「イワンコフ、誰が中で騒いでるんだ?」
「元の航海長のポポフだ」
「ちょっと銃を貸せ」
「おい!バカ水夫!ただで済むと思うな!お前らなんぞ……」
エジャーリンは、銃を取ると、天井に向かって撃った。
「ひいっ!分かった、わああ、何も、何もしてない!俺はただ……」
「分かったなら黙れ、ポポフ!」
「ひい……」
「なるほど、良い方法だな、弾が無駄になるが」
「連中には残念ながら、これ位しか平和的に解決できる方法が無いからな」
イワンコフは甲板に上がった。
雲と淡い夕焼けの向こうに、町の明りが微かに見える。
「……俺達だけで終わらないんだ、ロシア中の、世界中の人々を……」
イワンコフの言葉は、波の音に消された。
しかし、心の中で永久に響き渡っていく。
(続く)
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オデッサに入港した時、オデッサ側からは何の反応も無かった。
停泊している船やヨットの明りは灯ってたものの、港湾事務所などは明りが灯っていなかったのだ。
港内に停泊し、水兵達は暗い中で様子を伺った。
黒海艦隊側が既に手を打っていたのかも知れない。
うかつに此方から何かすれば大変な事になりかねない。
だが、しばらく待っても、何も起きない。
オデッサの状況を調べるため、バスコフとユーリーと言う水夫がボートで乗り込む事になった。
「頼んだぞ……」
「様子を掴むだけで良い」
戦艦セバストポリからロープが下ろされ、、ボートは着水、そのまま港湾の低い場所へ。
「明りは有るが……」
「ゼネストか?」
「それならまだ良いんだが」
ごん、と石造りの岸にぶつかった。
「よし、行くぞ」
士官から取り上げた拳銃と、汚れた水兵服。
それが彼らの全てだ。
「ユーリー、アレ見えるか」
「人が居る」
「警官や兵士じゃないだろうな」
一段上のレンガ岸の街灯の元に、誰か居る。
それは、服装から見るに港湾労働者の一人だった。
二人は急いで労働者に近づいて行く。
「……!」
「ま、待ってくれ」
「オデッサで何が起きている」
「……」
「俺たちは……その、色々あって、今はもう政府軍じゃない」
一瞬怯えた労働者は、何もして来ないのを見て、少し安心したようだった。
それで、更に質問もして来た。
「あの、あの戦艦は……」
「俺たちのだ……そう、俺たちのなんだよ、兵士の物だ、政府じゃない」
「オデッサは今、ゼネスト中か?」
「そ、そうです、皆もうデモやってます」
バスコフとユーリーは顔を見合わせた。
—— ◇ ——
翌朝。
レンガ岸に、帆布がテントの様に設置され、その中にネルチュクの遺体が安置された。
そして、その遺体の胸の上には紙があった。
「横暴と権力、そして飯の為に死んだ男」
反乱で政府を離れた戦艦が来たと言う噂は街中に広まって、見物人もやって来る。
釣り人や、散歩の老人、そして普通の市民たち、周りを見張っている水兵。
「あれは……」
「死体だ」
死体の前に、何人かの人だかりが出来た。
老婆が祈り、若い女が悲しそうな目で見つめ、さらにその後ろで男達が何とも言えない目で見ている。
その人だかりは、次第に膨らみ始め、そして、周りにいた水兵達と市民達が、交歓を始めた。
ネルチュクの遺体テントの前に置かれた水兵帽の中に、寄付が次々投げ込まれる。
そして、遺体に祈ったりするための行列が出来る程だった。
艦橋から、メフェーニンの物だった双眼鏡でそれを見たレオナードは、
ネルチュクの意思が市民にも理解され始めた事と、改めてネルチュクの死を意識した事で、
ボロボロ涙をこぼした。
「ネルチュク……ごらんよ」
ゼネストと水兵の反乱は、ここに及んで結託したのだ。
戦艦セバストポリには食料などが運び込まれ、水兵達は久しぶりに満足な朝食を食べる事が出来たのだ。
オデッサでも、戦艦セバストポリの赤旗の下で革命の火の粉がくすぶり始めた……。
(続く)
-
死体に哀悼する為の列は岸から街に及んだ。
死体の周りは人で膨れ、老若男女、些細な身分や障害を超え、
一人の船員の為に集まっていた。
「オデッサのゼネストは、一人の船員の為に意義を増した」
港湾労働者たちが、水兵帽に小銭を投げ入れる。
「革命に殉ずるのは、永遠の栄光だ……」
老婆達が跪き、水兵に祈っている。
皆が帽子を取り、涙を拭った。
もはや、彼らはロシアと言う物を信じられなくなっていた。
一人の男が、転がっていた箱をひっくり返して、その上に乗り、演説を始めた。
彼は革製品の工場のゼネスト指導者、イワンだった。
「一人は皆の為に!」
皆も答える。
「皆は一人の為に!」
「悪逆非道を打ち倒せ!」
「帝政をぶっ潰せ!」
女教師も箱の上に乗って叫んだ。
「子供たちの為に!弱き者の為に!」
皆が拳を振り上げた。
だが列から離れた場所では、工場長や資本家達が、苦い顔でそれを見ている。
振り上げられる拳。
飛ぶ声と怒り。
「戦おう!」
「そうだ、戦おう!」
「親、兄弟、姉妹、俺たちは皆一つだろう!」
「そうだ!仲間だ!」
その時、一人の資本家が冷やかして叫んだ。
「死ねよ、ユダヤ人!」
全ての視線がそこに向けられた。
「何だと!」
「この野朗!」
労働者達が一斉にそこに詰め掛けた。
「う、うわっ、止せ……ぎゃああっ!」
取り囲まれ、タコ殴りにされる資本家を、しかし助ける者は居なかった。
岸辺は人の力でガンガン揺れる。
演説は尚も続いた。
「一致団結せよ!」
「帝政になにも提供するな!反抗だ!」
そして、二つの声がオデッサ中を揺るがした。
「大地は我等の物!」
「未来は我等の物!」
—— ◇ ——
戦艦セバストポリに、一隻のボートが接近した。
乗っていたのはイワンと数名の市民、いわば「オデッサの代表」とボート漕ぎの水兵。
水兵達は、あの騒乱が有った前部甲板へ集まった。
所々戦闘の傷が残る中、人々はひしめき合う。
上部デッキに上がった艦の司令部員とオデッサの代表たちはがっちりと抱擁しあった。
「兄弟!」
「おお、兄弟!」
前部甲板から、上部デッキの両脇から、砲門の上から、監視塔まで水兵で埋り、
そしてあちこちから歓声が上がった。
「セバストポリの諸君!敵へ大打撃を与えねばならぬ!」
「そうだー!」
「ロシアの労働者と手を組んで戦えば必ず勝てる!」
イワンが拳を振り上げるとどうじに、水兵達も帽子を持って手を振り上げた。
「そうだ!勝てる!」
「帝政に負けないぞォ!」
オデッサも乗じて盛り上がっていく。
人々は市街地から湾に掛けて集まり、戦艦セバストポリを一目見ようと集まった。
そして、小さくも良く見える赤旗を見て、人々は歓声を上げるのだった。
気が気でないのは、資本家や貴族だった。
ここ数日、市民が変に騒いでいるだけだと思っていたら、急に戦艦がやって来て、
しかもそれは政府軍ではなく革命軍の戦艦だという。
そしてそれを見て市民たちは更に騒ぎを大きくしたのだ。
醸造場の工場長の邸宅に、家主と仲間が集まって、怯えていた。
広間には大勢の、カラスみたいな黒いスーツや太った蝙蝠みたいなコートを着た連中が
頭を寄せ合って話し込む。
「ああ、大変なことになった」
「政府は何も助けを寄越さないのか、え」
「モスクワやペテルブルグさえ騒ぎなのに、ここまで来る者が居るか」
「あの時馬鹿な事を言ったパジトノフはリンチされて海に放り込まれたそうな」
その時、部屋の戸が開いた。
「おっ」
「ああ、シルギンさん」
「私も困った」
シルギンは海軍付の小規模ドックの責任者だった。
「労働者は皆騒ぎについてっちまった、変な騒ぎだ、どうなるもんか」
「海軍付きの者まで……」
「あの戦艦のせいだ、いやまだ良くわからねえが……」
「シルギンさん、軍はいつ来ると思う」
「ああ、今その話をしてたのか、何、直ぐ来るさ……遅くたって五日もすれば来るだろう」
皆顔を見合わせて、ざわついた。
「こ、根拠は?」
「ある様で無いが……一応どこで何の騒ぎがあったかは逐一政府も把握してるからな」
「明日にでも来るかも知れないか」
「ああ」
資本家たちは高い笑い声を上げた。
(続く)
-
セバストポリが来てからの二日間、オデッサの町は帝政ロシアの所属ではなかっただろう。
警官の一部は職務を放棄してデモに参加するか、自分等の数十倍の市民の数に脅えて
制服を脱いで一般市民の何でもない様に過ごすしかなかった。
僅かに居た町付の郷兵は同じ町の人々に銃口を向ける気も無く解散状態になり、
正規兵は町の郊外の遠くまで逃げた様だった。
この日、町の人々の大勢が、海を望めるリッシェリュー階段に集まっていた。
市民は海の方を眺めて、戦艦を見る。
足の無い障害者には誰かが肩を貸してやったし、目の見えない老婆には
男が大きな声で戦艦のなりを伝えてやった。
数日前まで関わり合う事がなかったかも知れない者達が、
今はこうして意識を共有している。
だがある者はまた不安を感じていた。
階段の中ほどで、イワンは周りの人間に帝政が必ず敗れる事を語っていたが、
しかしそれを聞いていた者の中では、ある肉屋は本当にそうなるのか甚だ疑問に思って居た。
またある教師は、階段の一番下の方で座りながら、
いつまでもこの状況が続けられないだろうと考えていた。
「人間、理想で腹は満たされない……」
それでも大勢の人々は、気づいていようがいまいが、
互いを励ましあい、ただ同じ考えを共有する為に高揚して階段に集まり続けたのだ。
そして艦の方では、オデッサと連携して何をするか、詳しい話し合いが行われていた。
だが政府側がそもそも気付いているのかいないのかも分からず、
自分たちの不満を解消した後の事を何も考えていないと言う事に気付かされた者もいる。
「どうすれば良いのだろう……」
レオナードは会議場となっているサロン室の真ん中で、深く考えた。
「農民上がりと言われてもおかしくない我々がここまで来た……ここからが……」
ネルチュクの遺体は水葬にされたが、そのネルチュクはこの状況を見て何と言うだろう。
会議の中では、一部の士官を説得して水兵側につかせ、運営に組み込もうと言う意見まで上がった。
「それじゃあ前と同じになる!」
「しかしやはり専門知識の持たぬ身で艦を運営できるのか?」
「誰も耳を貸すものか、そして我々も誰が口を利くものか」
「万が一の時には殺せば良い、殺せば……」
—— ◇ ——
その時、ほとんど人の出払った町の外れから……
軍が現れた。
先頭にはロシア帝政旗が翻る。
指揮官達は臨時に張られたテントの中で、鎮圧作戦の会議をしていた。
「オデッサ駐屯連隊の地理案内に従う」
「市民は港湾部に集まっている様です」
「コサック騎兵は港湾部から入ると?」
「向こうは我々と同じ列を歩まないからな……」
中央の机の上には、地図や命令書が無造作に広げられている。
地図上の海には、船を現すコップが置かれていた。
指揮官のモルキゼフは、コップを突きながら聞いた。
転がったコップに、白い軍服のモルキゼフが歪んだ形で写った。
「あの戦艦は……」
「情報によると、反乱を起こしたセバストポリの様です」
「ふん!農民上がりが数任せにやって」
その時、斥候が戻ってきた。
「リッシェリュー階段に市民の多数が集まっています」
「ほう」
指揮官は、もう一度命令書を見た。
「司令部いわく、手段は問わない……か!」
「全ての準備は整っています」
モルキゼフは宙を見てから言った。
「隊列を組み階段へ向かえ、鎮圧を行う」
(続く)
-
リッシェリュー階段に集まっていなかった市民は、市街で転々と自分の為すべき事をしていた。
花壇に水をやる老婆、犬をおいかける子供、荷物を運ぶ者。
だが、どれも行進してくる兵士を見て、引っ込んでしまった。
「外に出るな!命が惜しかったら引っ込んでろ!」
叫ぶドネルギー司令の言葉には、市民への労わりの感情なんて一欠けらも無かった。
これから何をやるか、兵士達も予想は付いたが、ただ市民の不幸を他人事の様に思うだけだった。
「駈足!」
乗馬して上から指示を出すドネルギーに従い、兵士たちは銃を抱えながら
階段の方へ駆けていく。
「良いか、我々が上から反逆者共に掛かる!そして連中が下へ行ったのを騎兵が襲うからな!」
「……これは大変だ、皆殺される!」
その時、物陰からそのただならぬ様子を見ていた市民が飛び出した。
リッシェリュー階段に向かおうとした様だったが、無駄な事に終わる。
「あいつを撃て!」
或る名射手が、あいつと言われる内に一市民を撃ち殺した。
「偉いぞ、ゲオルギー」
—— ◇ ——
しかしそれでも、リッシェリュー階段の方にはある程度騒ぎが伝わっていた。
「何人か撃ち殺されたかも知れない」
「何だって」
「何人位なんだ」
上から下へ真偽の分からぬ情報が流れていき、ざわめきが広がる。
「どうなってるんだ」
「あっ」
その時、白い塗り壁のように整列した、あの連中が現れたのだ。
「撃てーっ!」
「……!」
最上段の方で銃声が響いた。
「うわああああ!」
「きたっ!軍隊が!ああああ!」
蜘蛛の子散らす様に市民達は逃げ惑った。
あれ程意気を高揚させ、軍隊にも勝てる様な気になっていたのが。
しかし本当に立ち向かう者も居た。
木の棒だけを持った無謀な青年が、上から下へ逃げ惑う流れに逆らって、
ただ一人で軍の前に突っ込んだ。
「くそったれ!お前らぶち殺して……」
「撃て!」
ニ十人一列で並んだ兵士の前に、ただ一人の青年は蜂の巣にされたのだ。
逃げ惑う市民に、また銃弾が浴びせられる。
市民の指導者イワンは、皆に急いで逃げるようにその場に踏み止まって叫んでいた。
もう、戦える状況ではない。
「逃げろ!今は戦うな!とにかく逃げて……」
しかし、台の上に立つ彼は格好の的になる。
「撃て!」
「……!」
イワンは右胸を打ち抜かれ、台から落ちた。
「うぐうう……」
「イワン!大丈夫か!」
仲間のハバロフが、イワンを助けて引きずって行く。
「胸が……」
「おい!しっかり!」
兵士たちは射撃を緩めない。
「撃て!撃てっ!」」
ズダンと言う音と共に、イワンのすぐ左で絶望的な音がした。
ハバロフの頭が撃ち抜かれたのだ。
「ああっ!うぐっ……」
もはや死んだろう友人と共に、イワンは階段の平らな所に倒れこんだ。
「ハバロフ……もう駄目か……」
イワンはどうにか片膝で立ち上がり、白い塗り壁の様な連中を見上げた。
数十段上の方で、連中は顔色一つ変えずに銃を構えている。
周りには死体と負傷者、そして逃げる市民で阿鼻叫喚の様相。
イワンは、少しでも皆が逃げる時間を稼ぐ為に、そして最後の反抗に、
右胸からあふれ出る血を右手で塞ぎ受け止めながら叫んだ。
「いいか……手先共!お前らは、必ず……正義の力で……倒さ」
「撃て!」
イワンの腹部を弾が貫いた。
「うぐっ……」
胸、腹と撃たれて、しかしイワンはまだ片膝を落として立っている。
「あいつを撃て」
「弾圧者に負けないぞ!……必ず、市民は……」
次の瞬間、三発ほど体のあちこちに当り、イワンは倒れた。
だが、その様子をしっかり見た者はもう周りには居なかったのだ。
(続く)
-
兵士達は長い階段をずんずん降りながら並んで射撃していく。
「へたばってるのを撃て!」
死体にも重傷者にも容赦なく彼らは射撃した。
そしてそれらを乗り越え、さらに前に進むのだ。
「ママー!」
「ああっ!」
母の目の前で、幼い息子が撃たれ、そして倒れる。
しかし倒れた息子の上を、更に逃げ惑う人々が踏みつけていく。
「アアーッ」
「ああ!ああ!子が!」
ズダンとまた音がした。
あたりを弾が飛び、また何人と倒れる。
それでも母親は幼き息子にすぐさま近寄り抱き上げた。
「ああ……」
「ペトロや、ペトロや……」
「撃てーッ!」
母親の横を銃弾がかすめて行く。
「……!」
憤然として立ち上がった母親は、逃げ惑う人々の間を抜け、そして兵士達の前に
ただ一人向かっていった。
「何だ、あれは」
司令のドネルギーにとって、立ち向かってくる者は皆全てが的になる。
だが、後ろから見ていた何人かの市民にとっては母親の行いは勇気ある行動だった。
「私たちも向かうのです!手を組んで!」
女教師が振り返って叫んだ。
そして十数名が母親の後について行く。
母親は、兵士達の前にただ一人進み出ていく。
彼女の両脇には、死体しかない。
「撃つのをやめなさい!」
「構え!」
兵士達は、どうも遅く銃を構えた。
そして銃の先がぶれている。
「息子が重体なのよ!……あなた方はそれでもッ」
「撃て!」
兵士達は一瞬戸惑った。
しかし彼らは、戦艦セバストポリの水平の様には、出来なかったのだ。
そして母親の後ろに追い付こうとした十数名にも不幸な事だった。
「アアッ」
母親と何人かが、ゆっくり倒れた。
子供もピクリと動かない。
「始末しながら進め!」
民衆は倒れるか、逃げるのみだった。
—— ◇ ——
そして、階段を降り切りそれでも逃げ惑う民衆に、さらに立ちはだかる集団。
コサック騎兵だった。
「ああーっ!」
「コサックだ!」
物凄い速さで、彼らは逃げ惑う民衆の中に割り込んできた。
「死ねーッ!」
「アガアッ」
まず、不幸な港湾労働者の一人が、顔からサーベルで切りつけられた。
「反逆者共に容赦するな!」
だがその時、ようやく市民の中でも反撃に出る者が居た。
市民派の警官の何人かが家からピストルを持ち出したのだ。
「くらえっ」
「!」
騎兵の一人が頭を打ちぬかれた。
「何だ!誤射か!」
「連中の何人かがピストルを持ってるようです!」
「ええい、殺せ!立ちはだかる者全て始末しろ!全て始末すれば良い!」
コサック騎兵を指揮していたウラジミール将軍は、ここに来て
反抗が行われ始めた事に内心驚いていた。
ただ市民は逃げ惑うだけだと思っていたのだ。
そう考えている内に、さっき応対した側近が、今度は誰かの放った爆竹に驚いた馬から
振り落とされ落馬した。
「グエッ!」
「ポロキフ!大丈夫か!」
「アアア……背中が……」
「ええい!」
市民らの反抗は、しかしそれでも殆ど無駄に近かった。
平和的に立ちはだかる反抗も、武器を持ち反抗するにも、彼らはやはり準備が足りなかったのだ。
(続く)
-
オデッサ市内のオペラハウスには、軍の本部が移設されていた。
禿げたプロコフ市長や役人達が、ホールの中をオロオロと動き回る。
「将軍!」
「市長殿、落ち着きなさい」
「う、うん」
モルキゼフは、市長の肩をポンポン叩く。
「今しがた、クズ共は死体になるか、お家に帰ってお漏らししてるかですな」
「それは……それは、良い」
しかしプロコフ市長は市民が死に過ぎるのも良くないと思っていた。
死んだ者の代わりの仕事は誰がやるのだろう?
黙った市長を後にして、モルキゼフはホールを出て大楽屋へ向かった。
大楽屋の中に元々あった物は片付けられ、軍用の物が新たに置かれている。
そして、相変わらず士官達は地図を見ながら悩み、色々説明しながらモルキゼフの一言を待っている。
「湾のセバストポリには黒海艦隊をあたらせれば良い」
「しかし黒海艦隊はどうも信頼が……」
「何」
「数日前にこの町の駐屯部隊からの電報によって士気が下がっているとか」
モルキゼフは白髪頭を抱えた。
「連中、あからさまな電報を送ったのか」
「はい、動転してたようで、黒海艦隊の司令部にニ度も送り付けられてます」
「セバストポリ オデッサニュウコウ ハンランノモヨウ」
仲間の、しかも新鋭の戦艦で反乱が起きたと知れば水兵達も何かを疑問に思う事は間違いない。
ましてやロシア中で騒乱が起きているこの時期では。
「しかし司令、電報を送らなくても、予定通りに帰港しない時点で感づかれる事でも有りますし」
「まあそうだが」
その時、伝令が入ってきた。
「市内の殆どを制圧し、御指示の通り現在戒厳令を敷かせています」
「宜しい!貴族や上流階級は保護させてろうな」
「何人か所在の分からないのが……」
「そうか、見つけ次第保護するんだ」
「はい」
そしてモルキゼフは手をパンとして、後はそのまま警戒させる様に命じた。
伝令はまた飛び出ていく。
「……しかしセバストポリで本当に何が起きているのか分からない状態ではな」
「補給が整っているのか、どう言う状況なのか」
他の士官達は顔を見合わせた。
「残念ながらここに有る兵力と構成では、相手が農民上がりの集まりとは言え戦うのは無茶でしょう」
モルキゼフは目を宙にやった。
—— ◇ ——
「どうも軍が来た様だ」
「ああ、助かった」
「反逆者たちは散らされたようだな」
醸造場の工場長の邸宅に集まっていた資本家や貴族は、軍隊が来たと言う報に安心した。
「外に出れるかな」
「家が荒らされてなきゃ良いが」
ある貴族は外に出た。
「おうい、大丈夫みたいだ」
「そうか、気を付けてください」
そして何人も外へ出て行く。
シルギンと貴族のシトラーヌイチは、自宅の在る郊外へ向おうとした。
「……誰も居ないぞ」
「おかしいな、流石にこんなに静かになるのか」
次の瞬間、遠くからの射撃が彼らを襲った。
「うぎゃあっ!」
「なっ……シルギン!」
シルギンが俯けに倒れた。
遠くを見ると、何と味方の筈の兵士達が銃口を向けながら此方へ来る。
「止めろーっ!俺は伯爵……!」
もう数発がシトラーヌイチを襲った。
「アガアッ……なっ……」
兵士達は死体に駆け寄った。
俯けに倒れたシルギンを仰向けに蹴り直す。
「戒厳令下に出回んのが悪いんだ、バカ……?」
「この勲章は……」
兵士達が、死体は本来自分たちが保護しなければならない相手だと気付くのに、
そう時間は掛からなかった。
(続く)
-
第三幕赤き潮風に乗って
セバストポリのデッキは、ざわめきに包まれていた。
港湾からボートで逃げてきた軽症の市民の話では、オデッサは軍に再び支配されたと言う。
「ワシーリイの話では階段で大勢の人が殺されたそうだ!」
「……」
「砲撃するぞ!」
エメリヤンと言う現在の砲兵長が叫んだ。
レオナードは海の向こうを眺めながら体を震わせた。
砲門が町を向く。
デッキから水兵達の姿が消えていった。
最終指令を待ち、エメリヤンは艦橋まで上って来ていた。
レオナード達はそれでも急の砲撃に戸惑いを見せている。
「しかし、市民たちを巻きぞえにしてしまうんでは」
「敵の本拠はオペラハウスらしい、岸から一キロ半、狙えば大丈夫だ」
「だが……」
「今我々の意思を見せずになんとする!」
レオナード達は顔を見合わせ、そしてやはり砲撃するべきだろうと言う
無言の空気に包まれた。
「砲撃準備」
砲門が街を見つめた。
「市の中心部、オペラハウス」
「調整完了」
水兵達は自分達の使い易い言葉で意思を伝える。
伝声管からは胸の鼓動まで伝わって来そうだった。
エメリヤンが最後の指示を出した。
「撃て」
轟音が何度も響いた。
しばらくして、市内からあちこちで煙が上がり始めた。
—— ◇ ——
十数分に渡り、艦は砲撃を続けた。
少なくとも分かる事は、政府軍に少々の損害を与えられたと言う事だけだった。
「これから、これからどうするか」
司令部が置かれた艦橋に代表たちが集まった。
小さい椅子を並べ、各部門から数名ずつ出ている。
レオナードや数人は顔を見合わせた。
誰かがこの意見に何かを言うのを待ち合わせている様だった。
誰が何の意見を持っているのか分からない。
ここに来て水兵達は自分たちの意思と指揮能力を試されているのに。
しかし誰一人何も言い出さない。
エジャーリンだけは艦橋の窓の向こうを気にしていた。
艦橋の向こうには海が見える。
エメリヤンが言う。
「やはりもっと砲撃するべきだ」
「市民も巻き添えになるかも知れない事を考えると安易だ……」
「安易だって!はっきり言えば我々が立ち上がったのだって安易……」
そこまで言ってエメリヤンは口をつぐんだ。
エジャーリンがれおナードに同調した。
「……我々は限られた範囲の内だった、しかし今度は違うんだよ」
「艦をオデッサから離そう、幸い物資に余裕は有る」
「それが良いだろう」
そう言いながら、しかしレオナードはオデッサの住民の事を考え、うつむいた。
「革命は……成らないのか……」
エメリヤンは急に叫んだ。
「捕虜だ、捕まえた士官を使え」
「……?」
「考えてみな、人質なんだぞ、これを使って相手に脅しを」
「人質を使って何を求めるんだ、士官十数名でオデッサから手を引くとでも思ってるのか」
「駄目なら殺せば良い」
レオナードは思わず顔を上げた。
暗かった視界が開け、鉄色の壁と高潮したエメリヤンの顔が写った。
「それでは……今まで俺たちを虐げてきた連中と同じじゃないか」
「……」
ユーリーも援護した。
「そうだ、俺は脅され殴られた日々を忘れていない」
だがエメリヤンは顔を引きつらせながら言う。
「あの立ち上がった時……何人も士官を倒しながら、言えるか」
「あの時とは違うんだ!」
「違わない、戦いは続いているだろう」
「このままでは連中と同じに」
「連中、連中と!奇麗な事だけで争いが出来ると!」
「何があろうと!今から殺す事だけは何が有っても……!」
両者の息が切れた。
気付けば二人とも立ち上がっている。
エメリヤンの方は水兵帽を床に叩きつけてまでいた。
艦橋の入り口からは何かと人が数名覗き込んでいる。
「二人とも、落ち着いて座ってくれ」
ユーリーに従い、お互い座った。
「とにかく、艦を一度オデッサから離す事にしよう、湾内ではいざと言うとき上手く動けないだろう」
オデッサの夢が、遠のいていく。
しかしそれはもう仕方の無い事に、レオナードには思えた。
(続く)
-
沖に出たセバストポリは、しかしオデッサが見えなくなるほど離れる事はなかった。
「あそこは、ようようやった証だよ……」
アスリは、離れていく陸地を見ながら水兵達に言った。
しかしもう誰一人喋らない、気落ちしてしまったようだ。
レオナードは士官捕虜を一箇所に集めさせた。
エメリヤンの様な者が勝手に捕虜をどうかしない為に、一箇所に集め監視をし易くしたのだ。
捕虜は皆汚れきっていて、悪態をつける様な者も少なかった。
「おい……糞ども……」
水兵達があまり手荒な事をしないと知ってか知らずか、
ぼやくようにぐつぐつ言うのだ。
しかし今度ばかりは水兵に殴られた様だった。
「誰に口を聞いてるんだ」
「うるさい、阿呆ども……」
「この野郎!」
空いていた備蓄室に捕虜が集められ、扉は閉じられた。
沖に出たセバストポリは、早く湾内を抜けようとしていたが、
しかしそうはさせまいとするのが居るのだ。
—— ◇ ——
黒海艦隊司令部の命によって編成された派遣艦隊は、
陸上からの報告を頼りながら、オデッサに近づいていた。
戦艦が二隻、駆逐艦級が五隻程、その他小艦艇などを伴いながら、
派遣艦隊は戦いの時が近付くのを感じていた。
旗艦とされた戦艦大イワンの艦橋では、双眼鏡を持ち遠くを見つめる
艦橋士官達の姿があった。
「見えません」
「電信によればまだオデッサを離れて間もないようです」
艦長のオリゴヤフは、白い髭を撫でながら、入ってくる連絡に耳を傾けていた。
「連中の砲撃で、市の庁舎に戻ろうとしたオデッサ市長とその側近が死んだそうです」
「軍に被害は?」
「警戒していた騎馬隊などの付近に着弾し、相当の被害が出たようですが、それ以上はまだ」
副艦長のアルビシが嘆いた。
「連中は元農民みたいな連中だのに……」
めくら撃ちの様な状態でも、敵は新鋭戦艦、それも士気も高いだろう反乱軍である。
しかし、恐れる事はないとオリゴヤフは考えていた。
「この艦隊の姿を見れば……すくみ上がるさ!」
だが、水兵達の間では、セバストポリの反乱の話は半ば神格化され伝わっていた。
「士官たちをぶちのめしたそうじゃないか」
「やったなあ」
「俺たちだって……ん」
「シーッ……」
砲手たちの後ろを士官が進んでいく。
「喋らずしっかりやれ!間抜けめ!」
「……」
士官達の中には、今度の反乱が兵士達に悪い考えを植え付けるのではないかと
危惧する者も居たが、しかし上層部の返事は、ただ艦隊の威厳と戦力が
それを払拭するだろうと言う曖昧な物だけだった。
(続)
-
大イワンを旗艦とする追撃艦隊は、目視距離内にセバストポリを確認した。
そして戦艦セバストポリも逆の事だった。
しかも騒ぎはセバストポリの方が大きいのだ。
「来た、来たぞ」
「……」
エメリヤンが顔を真っ赤にしながら命令を出す。
「砲塔を向けろ!」
だがレオナード達からの指令は、砲塔を向ける事は許可しても、
先制攻撃は禁じる物だった。
そして、赤旗を高く掲げる様にされた。
「何故だ!射程距離は此方の方が長いんだぞ!」
「我々は、兵士同志と戦う事を良しとしない」
「あれは敵だ!」
レオナードは艦橋から遠くの艦隊を見ながら、言った。
「……彼らだって我我と同じな筈だ」
その場の海兵の間でも意見が二分した。
しかしレオナードとその賛同者の指令にしたがい、どんどんセバストポリは追撃艦隊に迫っていく。
だが敵からは何の反応も無い。
「……敵の先発射程距離に入ります」
—— ◇ ——
相当近接距離に近付いた。
だが、これまで双方とも一切攻撃を行っていない。
「何だ……どうなるんだ……」
アスリも流石にこの状況に驚いていた。
「白兵戦の準備をさせろ、この距離じゃあ……」
「エメリヤン、この距離まで来て砲撃が無い事の意図を、そして敵側の甲板に一切の動きが無い事を見たまえ」
「敵は此方から来るのを待っているんだろう」
「違う、絶対……」
赤旗が強く靡く。
「信じられない……」
いよいよ、おたがい真向かいに対峙した。
「ああ、これまでだろうか、それとも」
「信じよう、我々はこれでもやる事をやった」
砲兵たちは抱擁しあってから、自分の担当の部分に手を添えた。
甲板上の兵士達も、皆抱擁したり励ましあったりしながら、
いよいよ目の前に迫りあう艦隊の運命に準じようとした。
「……攻撃が無い」
ゼバストポリは全速で艦隊の隙間に迫った。
その時。
—— ◇ ——
「万歳!」
敵艦隊から歓声が沸きあがった。
しかしそれは攻撃を仕掛ける為でも、威勢の為でもなかった。
セバストポリに向かって、甲板に飛び出てきた相手の水兵達が歓喜しているのだ。
「こ、これは」
「……もう、敵じゃない」
大イワンの内部でもセバストポリと同じ様に(しかし隠密に)反乱が行われた様だった。
そして指揮系統は破壊され、また他の艦でも同じ事が起きたのだ。
「革命万歳!」
水兵達はセバストポリも元の追撃艦隊も関係なく同じ声を叫びあった。
そして、艦隊は合流し、同じ方向へ向かって、進行を始めた。
「ネルチュクよ、見ておくれよ」
唖然としているエメリヤンを余所目に、レオナードは思うのだった。
「さて……各艦に連絡を送ろう、これからどうするか」
赤旗が全ての船に掲げられ、そして黒海を赤く染める日が来たのだ。
(完)