ワザップ!フォーラム
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お奨め小説の廃止に代えて
—— 1 ——
『有田賞、中止』
題がそう書かれたガリ版刷りの紙を、箱崎王朗はクシャクシャに丸めました。
「まだ三回目だってのに」
クシャクシャにした紙をゴミ箱にポイと投げたが、
唯一つの吊り下げライトしかなく薄暗い五畳間の中では、ゴミ箱に上手く入らない様です。
「ええい、外した、外した」
箱崎はゆっくりもそもそ動いて、紙をゴミ箱に入れ直しました。
ゴミ箱の中には、箱崎が丹念にクシャクシャにした紙が沢山放られています。
箱崎には、いつか紙達の会話が聞こえて来そうな気がするのです。
いや、今じゃ心の中で聞こえます。
『おい新入りだ』
『僕の名前は「有田賞中止告知」です、今後とも宜しく』
『どこかで聞いた事がある挨拶だが、宜しく』
『皆さんクシャクシャ、僕もクシャクシャ…』
箱崎は頭をボンボン振って、机に向き直りました。
今度の有田賞に出す筈だった小説の下書きが、綺麗に整っています。
『アレイスター・クロウリーの復活』
『コロンゾンは未だに彷徨っている。私には分かるのです、テレマ僧院から聞こえる淫靡な叫び声が…』
「こんな作品、癪だ」
箱崎はその下書きを先ほどの様にクシャクシャにしようと思いましたが、
その時、下から声がしました。
「箱崎さん、電話ですよ」
これまた薄暗い廊下に出て、薄暗く狭い階段を降りて、
今度は明るい廊下を抜けて管理室に出向くと、管理人が受話器を持って待っていました。
「何でしたっけ、技府文士会の…鬼島さんからですよ」
「やあ、どうもすみません」
箱崎は掛かって来た用事が、聞くまでも無く分かりました。
彼もあの告知を見たのでしょう。
—— 2 ——
新橋の喫茶店『エルレガーデン』に、技府文士会の面々がやって来ました。
ある者はビクトリア朝時代の紳士の様なピッチリした服装で来ていましたし、
クシャクシャのシャツとジーパンを着てきた者も居ます。
箱崎はどうやら最後から二番目に入って来た様で、次に矢定飛鳥が一番最後に入ってきた様でした。
そして矢定はモゴモゴ言いました。
「いやあ、来るのが初めてでね…迷ったよ、この『エルカンターレ』に来るまで」
「矢定さん、エルカンターレじゃないですよ、エルレガーデンです」
そう注意したのは狐田虎太郎です。
わざわざマスターに頼んで、席を固めて貰い、皆が面を合わせる事が出来ました。
しかし欠員も居ました。
「スペインから来たホアン・ニコラス…あんな奴はどうでも良い、
残念なのは会主の五十三万丈さんが居ない事だ」
忍人吉が口を挟みました。
「狐田さん、いくらなんでもどうでも良いとか言うのは…」
「技府文士会にあんなふざけた野朗は要らないのですよ、それにスペインはフランコ体制で…」
箱崎は、ニコラスが社会主義的な作品を書いていたかはともかく、
いけ好かない野郎だったのは確かなので、小さく頷きました。
それに、この場であの年上で老けて訛った日本語を聞くのは嫌でした。
重ねてやはり五十三万丈会長が居ないのは残念です。
彼は文士会の中で一番級の尊敬を受けていました。
第二回の有田賞を取ったのも彼です。
そんな中で、一際重い顔をした白雲陽也が本題を切り出しました。
ちなみに彼が第一回の有田賞を取った者です。
「有田賞の廃止と…ついさっき東光社から通知が来たのですが、これが」
『技府文士会所属員への援助縮小』
「何だって」
「ああ何て事だ」
皆ざわめきました。
鬼島なんか歯をガチガチさせてこう言います。
「ああ、書く気が失せた」
箱崎も少し同じ気持ちでした。
有田賞の存在とその主催元の東光社の援助が有るから小説を書いていた部分も有るのです。
白雲は続けました。
「これは…つまり我々が話を書く後ろ盾を欠き始めている、と言う事です」
また場がざわめきましたが、鬼島が大きな声を出しました。
「東光社が集えと言ったからこうやって各々集い、書いて来たのに、
これでは滅茶苦茶だ…文士会の意味まで無くしてしまう」
しかし、狐田も静かながら重苦しく言いました。
「…我々には、賞に値する者も、援助する価値も無い、と言う所か…」
箱崎は黙って、コーヒーを啜りながら自分の価値をようとしたのですが。
その時、矢定が肩を叩いて言いました。
「帰りは一緒に行かないか」
もう帰りの事を考えるのか、と箱崎は思いましたが、快諾しました。
—— 3 ——
結局、有田賞の廃止と援助の縮小について騒ぎあっただけで、
箱崎としては苦い思いと美味しいコーヒーを得ただけでした。
矢定と共に新橋駅に向かう途上、二人は昔を思い出しあいながら話し込むのです。
二人は昔から友人だったのです。
「東光社と関わる前、文士会の前の愛好会の時から僕達話を書いてたね」
「そうだ、確かにそうだ」
「あの時は金なんか貰ってないし、賞なんて当然無かった」
「でも、そう言うのが始まってから、何だかもっと話を書こうと言う気が出てきたよ」
矢定は不思議にその時悲しいような顔をしました。
「どうかしたかい」
「果たして賞や金のために、と言うのは良い心がけなのか、僕には分からない」
矢定はそう言うのを聞いて、箱崎は何だかモヤモヤな気持ちになりました。
しかし、さっき狐田や鬼島が言った言葉も、頭の中で響いてきます。
新橋駅の階段を上る所で二人は別れました。
ホームに103系の電車が滑り込んできます。
意外に空いていて、何故だかそれが箱崎には不気味に思えましたが、
でも何とも有りませんでした。
夕焼け空が電車の窓から見えて、特に日輪の輝きが目に焼きつきました。
「そうだ、明日は日曜じゃないか…」
(続く)
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—— 4 ——
翌朝、五畳間の真ん中で目を覚ました箱崎は、真っ先に四つんばいで机に向かおうとしましたが、
もう賞も無く援助も少なくなるのを思い出して、また床にへばり付きました。
「そうだ、今日は日曜日だ」
そう言いながら窓の外を見て、もう日が上がっているのを見ると箱崎は嫌な気になりました。
遅い朝飯を硬いおにぎりもどきで済ませ、ドンと部屋の真ん中にまたへばり付いたのです。
部屋の端を埋めている大本棚には、かつて賞がない(そしてしょうがない)時代に書いた
原稿がブリキの菓子箱に収められて、恐らく零したシミなんかは変な臭いを出しているのでしょう。
「…前は、好きに書いてたなあ…」
そこに、昨日の様に下から呼ばれました。
「箱崎さん、電話ですよ!」
一階の管理人室に行き、受話器を受け取ると、それは暖かい声が聞こえてくるのです。
「やあ、五十三です」
「万丈さん!」
「昨日は行けなくてね…いや、今日は暇だが…少し家に来て話でもしないか、客も居るんだ」
客が誰だか気になりましたが、電話を長引かせると管理人が怒るに決まっているので、
とにかく快諾しました。
—— 5 ——
大塚の静かな住宅地に、五十三万丈のこじんまりとした家があります。
小さな門を抜け、石の敷かれた狭い庭を越えて、パルコン式の小さな家の前に立つと、
呼び鈴を鳴らそうとする前にドアが開きました。
しかしそこに居たのは五十三ではなく、ニコラスだったのです。
「万丈さん!お客が来た!箱崎君だ!」
この色黒の男が、こうも訛りが有るとは言え流暢な日本語を喋るのが、
箱崎には何故か癪でたまりませんでした。
狭い玄関で箱崎はとりあえずニコラスを端に退ける様にして、
急いで奥の部屋に行きました。
茶色のふかふかしたイスに五十三は座ってニコニコしているのです。
「やあ、ニコラス君に先に会ってしまったね」
「万丈さん、ええ…あの、お久しぶりで」
箱崎の言葉をかき消す様にニコラスが足音をならしてやって来ました。
「嬉しいねえ!僕とも久しぶりだね、良くやってたかい!」
「ああ…はい、はい」
差し出された手をとりあえず軽く握り振って、また五十三に振り向きました。
五十三はまだ笑っています。
「特に、最近はこうも事態がぐるぐる回って…」
「仕方が無い事だよ、会社だってもちろん万能じゃない、それに僕達は好意の上でやってるんだ」
後ろからニコラスが続けます。
「東光社の人が無ければ、僕は今どうなっていたか分からないねえ!賞や金なんて二の次ですよ」
五十三はこれに頷きも首を振りもしませんが、並んだ二人を見て、残念そうに言いました。
「箱崎君、顔色が悪いね…」
ニコラスがまた言います。
「僕と見比べたんですか!僕は色黒だから顔色なんて分かるわけ無いさ、ハハハ」
これを聞くと箱崎はますます嫌な気になりましたが、それより五十三と
こうして向かい合う事が出来る喜びの方が大きかったのです。
—— 6 ——
その頃、鬼島は、自分と同じ意見の三角暗名と、冷めた意見の狐田虎太郎を連れて
東光社に出向いていました。
いや、鬼島の剣幕を見ると、押しかけていると言った方が良いかも知れません。
「どう言う事なんですか、有田社長を出してくれ、ええい、出してくれ」
「社長は今…会議中でして…」
「何の会議だ、自分達の保身か!え!」
応対の社員は、何をこんなに騒ぐのかと内心煩く思っいました。
賞が消えたぐらいで、援助が少なくなったぐらいで。
二階の会議室では、有田社長と役員達が下の事等知らずに会議を進めていました。
「時代はアナログからデジタルだ…各部の予算折衝は上手く付いた様で宜しい」
「IBM社からの電信によれば既に輸送の準備は出来ているそうです」
「代々木のコンピュータセンターの工事は、到着の二週間前に完了します」
「それは宜しい」
書籍部長が口を開きました。
「週間東光でもコンピュータを特集します」
「しかし記事面が狭まってるんじゃ…」
「一部当社宣伝や小説をカットし紙面を確保しました」
「それは宜しい」
経理が口を挟みました。
「それに関わり、月二万の援助も五千円に縮小しております」
「それは宜しい」
有田社長は、さっきと同じ様に頷いて、しかし寂しそうに続けました。
「小説が無くなるのは寂しいな…しかし未来の電子時代の為には仕方が無い」
会議を終え、代々木のコンピュータセンターの工事下見に行こうと一階に降りた有田社長に、
いきなり罵声が浴びせられました。
「有田社長!どう言うことだ!契約時にはあれほど…!」
「鬼島さんの言う通りだ、文芸は娯楽の中枢だと言ってたくせに!」
騒ぐ二人の顔にそれ程見覚えは有りませんでしたが、
恐らく書籍部が丸々契約したらしい技府文士会の者だと言う事は分かりました。
そして、二人の少し後ろで、ロビーのイスに座って鋭い目で此方を見る男もきっとそうでしょう。
社員に遮られそれ以上は聞こえませんでしたが、有田はただ深く頭を下げて、
裏の方から出ようとしました。
「逃げるな!」
「アッ…!」
社員を振り解き、鬼島は社長に掛かり付こうとしました。
さすがに三角が後ろから抑えましたし、狐田も立ち上がりましたが、
鬼島はまだ言っています。
「社長…!賞の為に俺は書いてきたんだ、俺の執筆意識を減退させて…」
有田社長は急いで裏から出ました。
「何なんだ、あの者は…」
一義専務が笑いながら言いました。
「恐ろしい」
「そんな風に言っちゃいかんよ」
「はあ」
(続く)
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—— 7 ——
五十三の向かいに椅子を置いて箱崎が座り、部屋の中央では机を借りたニコラスが
何かをコリコリ書いています。
「ニコラス君は今ピカレスク物を書いているんだよ、ねえ」
「ええ、そうですとも…悪人を倒し弱き者の味方、ロビンフッドにウィリアム・テル」
「日本で言えば鼠小僧みたいな物だろうか」
「鼠小僧はただの盗みですが、私の書くのは悪党を倒す行動的なのですよ」
箱崎はこの会話を聞いて非常に嫌悪感が沸きました。
青臭いのです。
時代遅れに思えるのです。
そして野蛮な行為を賞賛する様な物です。
「時に箱崎君、君が書いている作品はどうだい?クロウリーの…」
「あれは、もう書かないと思います…」
「どうしてかね、良い作品なのに」
「もう、賞も無いし、援助も…」
五十三は身を乗り出して、机の上に影を落としました。
「君は賞や、金だけが話を書く全てだと思うかい」
「…」
違う、と言いたい所でしたが、口が開きませんでした。
そう言われても仕方が無いような態度を取ったのです。
この時何故かこの状況でもコリコリとペンの音を立てているスペイン人、ホアン・ニコラスが
喋ってくれたらどんなに助かるだろうかと思いました。
しかし、ニコラスはもう黙ってただペンを走らせています。
音が途絶えず、まるで一筆書きをしているかのような感じでした。
—— 8 ——
沈黙の後、五十三は立ち上がり、箱崎を制して何処かに行きました。
「待っていなさい」
しばらくして五十三が戻ってくると、その手には大きなファイルが握られています。
何でも挟めそうな感じで、特注品の様に思えました。
「私の…いわば記録だよ」
手渡され、箱崎はパラパラとめくりました。
「これは…受賞した原稿ですか」
「そうだ、『新たなる探偵シェーンリング』の原稿だ」
箱崎は少し幸せな気持ちになりました。
尊敬している者の身近な品に触れられるのです。
しかし、これを見させて貰えるのは有りがたいとして、自分に何をさせたいのか
箱崎には分かりませんでした。
一通り眺めた後、さらにめくりました。
「これは賞状…」
それは原稿と比べて、綺麗に保存されているとは言えませんでした。
「皆それを見て、見せてくれと、眺めさせてくれと言う」
「当たり前じゃないですか、この輝かしい…」
「だがね、私には賞状なんて、せいぜい挟んで残しておくような物だよ」
箱崎は気付きました。
五十三は他にも他社の賞を受賞したりトロフィーを貰ったりしている筈なのに、
何処にも飾ってありません。
「私には、賞状なんてあまり価値が無い様に見える…逆に創作の壁にも思えるのだ、
トロフィーも同じ様な物で…生活が緊迫したら売ろうと、それは綺麗に物置にある…
役に立ったのは記念のペンぐらいだよ」
ここでニコラスが笑い出しました。
「役に立ってますとも、それはとても!スラスラ書けるのはこのペンのお陰です!」
箱崎は、しかし賞状やトロフィーの価値など無くても、認められる事を否定するような
五十三の態度に余り同感出来なかったのです。
「しかし…賞品に価値は無くても、認められる事によって励みになったり、賞金で
さらに豊かになれるじゃ有りませんか」
「箱崎君、認められる為に話を書くと言うのは…自分の思う通りの話を書けなくなりかねないよ」
「しかし先生は認められた故に受賞されたじゃ有りませんか、それも何度も」
「…人が認めようが認めまいが、まぐれだろうがそうで無かろうが、私はとにかく自分の話を書きたい
そして、金や名声に縛られず、自由に…」
そう言って、五十三はニコラスの方を向きました。
「ねえニコラス、君の話をしてあげれば良いじゃないか」
「しかし、僕の話はあまりねえ…」
「良いんだよ、箱崎君も聞いてやってくれよ、彼の国の事を…」
—— 9 ——
箱崎はニコラスの原稿を遠めに見て、妙に崩された日本語が、
改行もあまりされずに書かれているのを見て、あまり良く思いませんでした。
筆記体を無理に導入しているのかも知れません。
「何処から話せば良いだろうか」
「スペインの…体制と言おうか、そこから言えば良いかな」
ニコラスは何時に無く寂しい顔をしながら、懐から何かを取り出しました。
「これが…前に見せたろうけど」
スペイン大使館の非常勤アシスタント。
恐らく下の下の地位でしょう。
「僕は何処でも下の下でね、生まれた時もトレドで一番の未熟児だったろう…」
その癖今は大柄なのですが、箱崎はそんな事はあまり重要ではなく思えました。
「そんな僕の唯一つの取り柄が…と言っても周りは誰も書かないで僕だけが書いたから当たり前だけども、
話を書く事だったのだよ…」
さらにニコラスは悲しい顔をしました。
「でもね…分かるかい、自分の好きな話を書けない辛さを…体制の為の話しか書けないつまらなさ」
箱崎は、ちょっとだけ分かる様な気がしました。
「ああ、分かるかも知れない、図書感想文みたいな」
「違う!そんなんじゃない!…検閲、規制、ファシズム!全ての芸術は国家の為に!ああ!」
こんなニコラスは見た事が有りませんでした。
そして箱崎は大変反省しました。
自分の言った事など、ニコラスの居た所の事に比べれば何でも無いのでしょう。
ですが、また疑問が出ました。
「だったら自分だけの為に書けば…」
「自分だけの話!それは小説じゃなくて気が狂うような独白だよ、
僕は皆に知ってもらいたい、だが見せても人は決まった様に言う、『反体制的だ』」
箱崎は狂わんばかりのこの顔を見ました。
「僕は数作、国の為に書いた、あの時はそれで良かった、それしか書けなかったから!
小さい賞だけども賞も受けた!今だって売られているかも知れない、亡命した訳でもないから!」
「…日本に来たのは何故?」
「向こうで、フランコの意向で日本との友好小説を書けと…それで日本に興味を持って…
それで日本が自由な国であること、アメリカよりも幸せである事を知った、
だが旅行さえ自由に出来ないのだから、酷く、酷く勉強してこうなったのだ」
勉強して一応大使館のスタッフになった割には、この人格かと箱崎は変に思いましたが、
それは規制からの開放の喜びや自由に書ける事の素晴らしさから来ているのだと考え直しました。
「僕は自由に書けるならもう賞状も金もフランコの変なサインが入ったペンも要らない!
向こうに居たら今のように好きな話は書けなかった!」
後に残ったのは、息切れのみでした。
五十三も、これ程になるとは思って居なかった様でしたが、
最後に深く頷き、ニコラスに座らせました。
「もう良いよ、有難う…どうだね箱崎君、世には好きな話を書けない所も有る」
極端の様な、しかしおぞましい話を聞いて、賞や金の事など吹っ飛んでしまいましたから、
箱崎はただ頷きました。
(続く)
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—— 10 ——
白雲は寝台特急はくつるの個室の中で、原稿を書いていました。
賞がなくなっても、援助が少なくなっても、別の小さな雑誌で連載を持つ故こうして
寝台列車の仲間で物書きをし続けるのです。
『ソ連の詩人マヤコフスキーは、今もソ連の人々の心の中に…』
ここまで書いて、後をどうするか筆を止めました。
「残っている…いや、生きている…こびり付いている?」
実を言うと、この連載を書くに当たって、一切ソ連の人と話をしたり、
ソ連に向かったりしていないのです。
ただ、詩集を読み、日本語訳の解説書を読んで、自分なりに書いていたのでした。
それなのに、大変感嘆しただの、共産革命に最大の賛辞だの、
向こうも分かりきった様な、手紙が送られてくるのですから、
白雲は大変複雑でした。
外はもう真っ暗で、それに気付くと白雲はさっさと原稿をしまって
寝台に転がりました。
幾つの駅を過ぎたのか、眠る白雲には分かりません。
そして一際大きな警笛が鳴ります。
「青森ー、青森ー、終点ー」
「ああ、もう着いたのか」
プラットホームに下りると、出迎えが来ていました。
「白雲先生!」
「ようこそいらっしゃいました」
ベージュ色のコートを着た二人の男が、手を振っています。
「車は止めてありますよ」
「景色が良い所ですよ」
「来週の金曜までですよね」
「帰りの寝台の切符は速めに買いましょう」
ズラズラと流れる様に言う二人を適当にあしらい、白雲はさっさと改札を通り、
二人に荷物運びを任せて切符窓口へ行きました。
全てを済ませて、車に乗り、さらに西北へ向かいました。
日本海を望む旅館に車が着くと、さらに出迎えが来て、まるで人のだるまの様になって居ます。
「先生、ようこそ」
「どうぞ来ていただいて」
「東京の話をぜひしてくだせ」
—— 11 ——
白雲は旅館の大きな間の中央に座り、周りを見渡しました。
まだ十五位の学生服をぴっちり来た文学少年や、丸眼鏡を光らせる者、
さっきの二人等、色んな者が居ます。
「先生はさぞ東京では敬われるでしょう」
「いや、それ程では」
「あの…有田賞のそれを見せていだだけませんか」
白雲は、鞄から大事に丸められたそれを取り出しました。
「おおっ…」
「凄い」
「記念の、記念のペンは?」
そんな事まで知っているのかと驚きながら、筆入れから記念のペンも取り出しました。
「凄い」
「金彫りだぁ」
しかし、白雲は言われれば言われるほど、大笑いしそうな、それとも
逆に哀れで悲しくて泣いてしまいそうな、変な気分でした。
有田賞なぞ、東京では何でもない賞なのです。
この前の集会では深刻そうに言いましたし、実際援助が少なくなるのは嫌でしたが、
それでもやはり芥川や直木や新潮賞や、それらに比べれば登竜門以下の何でも無いのです。
それを、この青森の人たちは、有り難がるのです。
もっと思いを進めると、更に悲しくなる事が分かりました。
この中の誰かが東京に出てみれば直ぐに分かる事なのでしょうが
有田賞がなんでもない事に気付けば、自分を軽蔑する様になるでしょう。
「先生、この度はこんな所まで来て頂き真にありがとうござんす」
「いや、私も期待していたんだよ」
週間東光に、地方文学のこれから、と言う記事が出て、そこから青森の者が
東京に手紙を出して、東光社から是非行けとされたのが、白雲でした。
「先生、これ見てください、どうっさすか」
「ええと、ええと…」
ズっと差し出された原稿を読み、流し見しました。
「…良い作品じゃないか」
お世辞では有りませんでした。
農村の風景が浮かぶ様な書き方です。
『老人はただ畑を耕し、隣の田中の耕運機なぞ何でも無い様にセッサセッサ…』
「おや、名前がまだ書いてないな、君なんて言うの」
「連田金太郎です」
連田の隣の男が笑いました。
「俺たちん中ざ、レンキンと言うです」
「そうか、レンキンか、ハハハ」
まず最初に東京に来て、真実を知って軽蔑するのは、このレンキンと仇名される少年かも知れません。
—— 12 ——
箱崎は、月曜の朝を迎えました。
昨晩、帰る時、ニコラスは嫌と言うほど抱擁してきたのです。
あの男は向こうで国策の為に好きな物が書けなかったそうですが、
その国策は男色も進めているのでしょうか。
下に行って、ポストを見ると、手紙が入っていました。
「おや、今度は手紙か…」
『今度の集会は予定して行われます、是非全員参加して頂きたいと思います…』
品川の小さな会館を借りて、今度の出来事に関する技府文士会の会議が行われるようでした。
「今度の日曜日か…」
(続)
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—— 13 ——
金曜日、箱崎と矢定は上野駅のホームに居ました。
白雲を迎えるためです。
パアーン、と警笛が鳴って、ゴトゴトと列車はやって来ました。
それと同時に向こうからベントオーと言う声もします。
昼前なので、この旅客ホームでも駅弁売りをやっていましたが、
終着駅で弁当を買っても記念と腹の足し以外にはならないだろうと箱崎は思いました。
青い寝台客車の戸が開き、ぞろぞろと客が降りてきました。
その中で、黒いコートを着た白雲がズンズン前に出てきます。
「白雲さん!」
「こっちだよ!」
「ああ、箱崎君に矢定君、来てくれたのですか!」
「時間を知っちゃ、行かない訳にはいきませんからね!」
人ごみで騒々しいホームでは、自然と声が大きくなりました。
「日曜日の件、聞きましたか!」
「ああ!電報で!」
「それは良かった!」
「今度の会議は重要だってね!」
「そう!」
階段を上り終え、一息ついた所で、箱崎は向こうがどうかを知りたくなりました。
「白雲さん、どうでした、青森は」
「良いよ、とても良い所だ、土地も人も…風邪だって直ぐ治りそうなほど綺麗な場所で」
「向こうの人たちの中には凄い人も居るんでしょう?」
「ああ…連田金太郎って知ってるかい?知らんでしょう」
箱崎も矢定も首を振りました。
考えてみれば当然の事です、二人は東北に何の縁も無いのです。
「さて飯でも食べよう…」
「誰が払うんですか?」
「ここに…俺は欲しかった訳じゃないんだが、向こうの人たちがくれた教授料があるんだ、これで」
また、箱崎も矢定も笑いました。
—— 14 ——
日曜日がやって来ました。
品川駅が最寄とは言え、会館は離れた場所にありました。
箱崎は、矢定と白雲と一緒に行きましたが、この長さには辟易します。
しかし、タクシーを使うには惜しい区間です。
ようやく着いた時には、集合時間の二十分前でした。
白い会館は、何か回教寺院を思わせました。
ミナレットも膨らみも無いけれど、ちょっと付ければ回教寺院です。
「やあ、来たか!」
突然声をかけたのはニコラスでした。
会館の入り口の裏で缶コーヒーを飲んで待っていたようです。
「この建物…グラナダのモスクを思い出す!」
モスクとは回教寺院ですから、箱崎と同じ事を考えていた事になります。
箱崎はどう返事をすれば良いか分かりませんでしたが、とにかく何か返さなければいけません。
「ああ…あー…僕も回教寺院みたいだと思った」
「そうだろう!グラナダの王朝建築…いや、俺の事はよそう」
矢定と白雲は顔を見合わせました。
二人は回教寺院にあまり印象が無いようです。
四人で中に入り、掲示板を見ると、一号ホールが技府文士会に割り当てられていました。
「まだ人が居ないのか」
「駅から遠いからなあ」
「五十三さんも来てないし」
それでも、時間が近付くに連れ、人がぞろぞろ現れました。
「持田餅蔵ここに参る」
「ハハハ、高戸三郎も居るぞ」
持田と高戸が続いた中では一番最初に現れました。
—— 15 ——
「…全員居ますね」
「集合完了だ」
「ホールに入ろう」
五十三と白雲が確認を取って、先頭で入りました。
「外は小さめなのに中は広いなあ」
「誰が此処の金を払ったんだろう…」
それを聞いて、皆に見えないようにニコラスがぺロリと舌を出しました。
「(俺が大使館の食費を少し着服して、俺の金として五十三氏と合同で借りたのさ、ごめんなフランコ)」
この前五十三の家にニコラスが居たのはこれが理由でした。
ただ話が終わってから箱崎を呼んだのは五十三ですが、それはもう誰にも分からない事です。
鬼島は今でもプンスカと言う表現では済まないほど憤っていました。
「あの嘘つき社長、話を書く苦労も知らんで、え、何だ、クソッ…」
それに相槌を打つのは三角です。
見渡す限りの椅子に人が座りました。
小さめと言っても人が埋まれば壮観です。
そして白雲が口を開きました。
「さて…有田賞の廃止と援助金縮小についてですが…」
(続)
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—— 16 ——
「抗議しに行こう、我々は雇用されているような物だから」
「もう他の各社に鞍替えした方が良いんじゃないか」
箱崎は流れる様な議論を聞いて、目が回ってきました。
抗議しに行っても、正社員の様に雇用されている訳でもなく、
ただ雇われて、しかも技量と比例せずに雑誌に載せてもらえている身分で
何を抗議出来るのか分かりませんでした。
そして、鞍替えも同じ理由で、出来ないでしょう。
しかし、箱崎には口を出す勇気がありませんでした。
五十三は、向かって中央の席で、視線を落としながら周りの話を聞いています。
矢定が、立ち上がりました。
「私は…お金とか、賞の為に…こう騒ぐのはみっともないと思うのです」
隣のニコラスがうんと深く頷きましたが、他の者から怒号が飛びました。
「何を言ってるんだ!名誉が掛かってるんだ!」
「理想主義者の意見なんか無駄です!我々はこうして話を書くのが仕事です!」
ニコラスが矢定に続いて立ち上がりました。
しかし突然不意な事も言いました。
「貴方方は何を恐れているんですか」
「何を恐れてるだって、何だ!」
「変な事を言うな!」
狐田が一際声を上げました。
「お前の出る幕は無い!カルトめ!」
何がカルトなのか逆に箱崎には分かりませんでしたが、
前まで和やかな雰囲気で、対立なんて滅多に起きなかったのが、
今では瓦解も避けられない様な状況でした。
「(今まで…俺達は何をやって来たんだろう、話を自分らしく書く以上の何かを…)」
—— 17 ——
ニコラスは、怒号が静まるまで顔を静めていました。
矢定も、心配そうに見ています。
「…結構ですか」
会場はシンとしていました。
「私たちが話を書くのはね、賞や金の為じゃない…それともそう思ってるのは僕と…精々矢定君だけですか」
狐田が無視した様に遮りました。
「皆さん、こんな外国人の何も分からないのを聞いたって無駄です、別の…」
「良く聞きなさい、東光社に何かするよりも、我々の内面的な問題の方が…」
「だまらっしゃい!」
ニコラスは黙りました。
しかし彼だけでなく会場がまたシンとしたのです。
箱崎はだんだんこの場の状況が異様に思えてきました。
「(話を…好きに書くと言うのは自由を尊重すると言う事だ、でもあの人達は、
自由よりも、名誉とか、そう言う良く分からない物を尊重している…)」
ハッとしました。
自分も今までそうだったではありませんか。
五畳間と言う中途半端な間取りの薄ぼけたアパートの中で
自分の自由の象徴であった小説はブリキの箱の中に閉じ込められ、
賞の為の、名誉の為の小説が机の上で妙に嫌な色で輝いている!
契約だとか賞の名誉とか、そんな物が自分らしさをへし折っていました。
今五畳間に戻れるなら、机の上のクロウリーの小説を滅茶苦茶にして、
ブリキの箱から小説を開放してやる事でしょう。
目の前では狐田が、今まで無視しようとしていた様な態度を取っ払って、
今度はニコラスの事をべらべら喋っています。
「良いですか皆さん、この男は精々向こうの抑圧的な体制に見合った話しか書けず、
妙な教育しか受けないでグダグダの日本語を喋り…」
この男は、逆に自由や、その反対の名誉や金よりも、ただニコラスや気に入らない者を
ねじ伏せたい様に見えたのでした。
しかし、そう言う内面は誰もが持っていると言う事は、箱崎も分かっていました。
自分も、ニコラスを嫌っていたのだから。
箱崎は立ち上がりました。
呆気に取られて議題進行も行えなかった白雲が、何とか言葉を搾り出しました。
「…箱崎君、意見ですか」
「…はい」
狐田が言葉を止めました。
ニコラスは横で黙って見つめています。
場が、箱崎を促します。
「(言え)」
「(言いなさい)」
「(貴方は発言するために立ち上がった)」
第三の声か、幻聴とも言う物が加わってきます。
「(貴方が自由をまだ信ずるなら、言うべき事は分かっているだろう)」
頭の中を、様々なイメージが駆け巡っていきます。
トロイアを追われる人々、バビロン捕囚、十字架のキリスト。
スペイン人にに殺されるインディオ、ネイサン・ホールの処刑、ドレフュス。
絶対主義、クレムリン前にパンを求めて集う住民、革命。
「よ…抑圧的なのは…今の、貴方じゃないですか」
「(それで良いんだよ)」
「貴方までその男を…」
「今…貴方がやっている事は…いや、もうこの事は良い…貴方方が言っている事は…
自分達の、自分らしさを、賞や、金の為に…」
「そいつは文学性に欠けた体制主義の国の出です、そんな奴が居るから
賞は無くなり援助も減らされて…」
鬼島も続けました。
「賞や金を求められないで何が自由だ、何が文士会…」
「何を言うか!」
皆がその方向を見ました。
五十三でした。
「…箱崎やニコラス、矢定の言う通り…我々はもう行く先を見失っている、
ただ自分らしさの無い、資料をあさって書いて会社に送るだけじゃあありませんか」
場が静まっています。
「…私は、文士会を解散したい…いや、私が抜けよう、援助を受けたい者には文士会が必要だから」
そう言うと、五十三は会場を抜け出しました。
「…私も」
矢定も。
そしてニコラスも。
更に何人も出て行きます。
「…皆さん、脱会者は…もう仕方が無い、我々だけで…」
しかしそこまで言って狐田や鬼島が箱崎を見ました。
「何で居るんだ!出て行け!」
箱崎は最後に言いました。
「自由は死んだ!」
—— 18 ——
会館の外で、脱会者は顔を見合わせました。
最初に、五十三が笑って言いました。
「…あっけないね」
「ハハハ…良いです、私はもう悪口を言われるのは嫌だ」
そう言ってニコラスは箱崎の肩に手を回しました。
「アミーゴ」
箱崎は肩を回されるのも、アミーゴと言われるのもまだ嫌でしたが、
これから気にならなくなるかも知れない様な気がしたのです。
いつの間にか、白雲が抜け出て、混ざっています。
「…もう僕達は団体じゃないんですなあ」
「良いじゃないか…枠は無くなっても、繋がりは切れていないよ」
「…さあ、私のおごりだ、近くの喫茶店でも行こう」
「ハハハハ…」
箱崎は、出てきた事を後悔しません。
第三の声…それは五十三の声にとても似た、いや同じ声が語り掛けてきます。
「(金は働いて得れば良い、むしろ働けば良いアイデアも得られる、
名誉は二の次で良いではないか、自分らしさが無い名誉や誉れなんて、鉄くずじゃないか)」
ニコラスの声も聞こえてきます。
「(自由に話を書ける事を喜んでくれたまえ、自分の思う事を隠さず言えた自分を
褒めてあげたまえ、この世に平和を、世界に自由を…)」
「…そうですね」
「ん?どうした箱崎君?」
「いや、何も」
—— 終章 ——
箱崎は、ブリキの箱の蓋を開けました。
変な匂いがしましたが、状態は悪くありません。
「…待っててくれたんだね」
もう、ブリキの箱に蓋をする事は有りません。
自分はもう、書いた後に隠したり仕舞ったりする様な作品を書く必要は無いからです。
「箱崎さん!電話ですよ!」
管理人がまた呼んで来ます。
受話器を受け取ると、白雲の声がしました。
「やあ、昨日はどうも」
「ああ、箱崎君、昨日は良かった…それより、今度の日曜、上野まで来れるかね」
「大丈夫ですが、何があるんです?」
「連田金太郎君が上京するんだ」
「前に話していた…」
「そうだよ…ああ、そうそう、僕が見た彼の作品が、青森県少年文学賞を受賞した」
賞と聞いて箱崎は一瞬もやっとしましたが、少年文学賞ですから、
まだ夢も希望も満ち溢れていました。
「僕達でレンキン…おっと、連田金太郎君を迎えようじゃないか」
「とても良いですね、他には誰が?」
「この前退場した者皆さ、ハハハ」
新しい星が、青森からやってくる。
そう思っただけで、熱い思いがします。
電話を切り、自分の部屋で机に向かいながら、箱崎はまた考えました。
話を書けば、まったくの駄作を書く事もある。
マニアにしか受けない時も、大衆受けする時もある。
賞を貰ったり、脅迫状を送られたりするかも知れない。
規定に縛られたり、アングラ雑誌みたいに何だって良い時もある。
しかしどんな時も、一番大事なのは、自分らしさなのだと。
(完)