ワザップ!フォーラム
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第二回コミュ雑小説大会 前半戦同賞一位作品「ゴミ」改作
君らが意識しなくても、たとえ歪んでいても、そこに居る
第一話「くず」
三月中旬
埃が溜まってくたびれた印刷機。
それを睨み付ける作業員が居た。
「酒井ィ、見たって動かねえぞ」
「そんな事は知ってるさ」
もう、三日も仕事らしい仕事をしていない。
古ぼけたトタン建ての印刷所には何だって埃が溜まる。
あの資材運搬のフォークリフトも、さっきの印刷機も、もう使っていない活字版も、
何もかも埃まみれなのだ。
「酒井忠盛」と名札の付いたツナギの作業服も、傷やインクのシミが至る所に付き、
もう何もしたくないと言う様子だった。
裏の社宅だって、明らかに基準を満たさなくなった古アパートなのだ。
そんな中で、工場の中に、のそりのそりと現れたのは大木社長だった。
白髪交じりの頭、顔が青く明らかに血が足りなさそうだった。
ただでさえ遅い足取りも、今日はいつもより重い。
酒井が来た頃はもっと元気だったのだが…
「皆聞いてくれ、昨晩から此処は人手に渡った、社宅も機材も、人以外は全てだ」
酒井も、他の数人の作業員も、もう笑いも泣きもしなかった。
—— ◇ ——
「今ーわーかれーの時ー♪」
「飛び立とうーみーらい信じてー♪」
体育館から響く歌声。
それが終わると万雷の拍手。
そして校長の有りがたいお話。
「皆さんが…将来…大きな花を咲かせ…社会に貢献できる…」
「ふん…」
体育館の外、フェンスを挟んで県道の桜並木の下。
酒井は体育館から漏れて聞こえる卒業式の声を恨めしく聞いていた。
頭には痛々しくガーゼが付けられている。
また、大きな校長の声が聞こえる。
「春は…旅立ちの季節です…大きく、まだ真っ白な未来へ…」
確かに旅立ちの季節である、だがただの旅立ちではない。
別れ、年度末、決算、切り捨て…
「どうせ…あの卒業生の内で大成する奴なんて…ん」
野良犬が男の周りを吠えながら周っている。
「ウー!ワンワン!ウーワン!ワン!」
「うるさい!お前まで俺を…!」
犬に怒鳴っても何にもならない。
酒井はそそくさと立ち去った。
作業所の倒産、給料の未払い、社宅追い立て…何もかもがオーラを黒く染めている。
所属の印刷所は潰れ、社宅は追い出され、それでも
酒井は役所の世話にはならんと、浮浪生活を始めた。
役所が何もしない事を良く知っていたのだ。
酒井は、大それた悪事なんぞした事は無いが、良く褒められる程の事もした事は無い。
ただ、無気力と漠然な圧力の中で、何となく高校の門を潜り抜け、長野から東京に上った。
だがそれも五年でこれである。
そっと、頭のガーゼに酒井は手を当てた。
こうなった理由は、数日前に遡る。
—— ◇ ——
やくざ風の男に道で絡まれていた、頭の足りなさそうな男を庇ったのが始まりである。
「ううん…いや…その」
「だからぁ、僕ゥ、聞いてる?…此処に来て欲しくないんだよ…」
「な、何で…?」
「てめえが居ると臭いからだよ!しかもどもりで!頭が足りない!街の公害だ!」
何とも、見過ごせない物を感じ、男は割り込んだ。
「なあ、止めなさいよ」
「何だてめえ!」
「彼が何か悪い事したのか…」
「ああ?こいつの存在自体が害悪だな!」
理由になっていない。
「だからこの人がどうかしたのか」
「分かんねえのか!もう一度言ってやるよ!悪臭でどもりで馬鹿で・・」
「それは理由に成らないじゃないか」
「黙れ!このクズ!」
「うっ…」
鉄拳が飛んできた。
鉄拳と共に理解できたのは、このヤクザは、ただ腹いせに精神障害の男を
いじめていた、と言う事だけだった。
助けてくれない。
誰一人助けてくれない。
ヤクザは何度も、ダウンした此方を殴り蹴り、罵詈雑言を浴びせかけてくる。
「え!こら!聞けクズ!街の、公害っていうのはな、こう言う劣等みたいな…」
道行く者は皆、誰一人、こちらに眼を向けない。
軽い精神障害と思しき男は腰を抜かして壁によたれている。
救いなのは、遠くからサイレンの音が聞こえてきた事だ。
「おっと…もう二度とこの辺りを歩くんじゃないぞ!キチガイ!死ね!」
ヤクザは、逃げ際に精神障害の男も一発殴って、去っていった。
「う…痛い…」
助けない方が良かったのか。
警官に支えられながらパトカーの後ろ座席に寝かされ、救急車を待つ間、
ずっと空間が歪んで見えた。
追い討ちを掛けたのは警官二人の囁き声の会話である。
「…馬鹿だな、キチガイを庇うなんて…」
「偽善だな、賞状でも貰えると思ったのか?おい、このキチガイの所属している施設何処だ?」
ああそうか、庇うのは馬鹿なのか。
弱者を庇うのは偽善なのか。
酒井は、故郷の長野で、同じような光景を見ていた。
中学生の頃、不良が特別学級の生徒を虐めていた光景を見ていた。
虐められていた生徒は、こちらに助けを求める視線を投げかけて来た。
しかし、酒井には不良に立ち向かう気力がなく、その場を離れていた…
あの時の思い出は今でも、酒井の心のトゲの一つだ。
それを振り払う為に、見過ごせなかったのかも知れない。
だが結果はご覧の通りだった。
—— ◇ ——
翌日に病院を出た頃には、男はひねくれの塊になっていた。
あのキチガイは何処に行ったか知らない。
「…」
そんな事を思い出しながら、男は桜並木の河川敷を歩いていた。
もう犬も居ない。
護岸壁の下はゴミ溜の様で、かなりこの川は環境が悪いらしい。
ずっと遠くまで見ても花見やら散歩やらの人はあまり居ない。
「…ここなら邪魔されずに」
男はベンチに寝そべった。
「あ…あ…」
「?」
聞き覚えの有る声がする。
「お前…」
「この前の人…」
酒井は、少しばかりネガティブな気分が吹き飛んだ。
この男がどうなったのか、少し気になっていたのだ。
「お前…施設に戻ったんじゃないのか」
「元の施設…潰れた…それで追い出されて町歩いて殴られて」
「そうか、お前は徘徊どころか住む場所も無かったのか…」
自分と同じ状態にこの男は有る。
だが、どうすれば良いのか、互いに分からないのだ。
「お兄さん、助けてくれて…その後新しい…保護所行って…」
「そこはどうなんだ?良い所か?」
「駄目…婦長さん…おかしい…あの人、僕よりおかしい…」
「…」
男の手を見ると、痣が有る。
酒井は、この男はどんな事をされているのか、薄々感づいた。
「…お前、どうして頭がおかしいんだ?」
「預けられる前に…ママから聞いた…砒素ミルク…飲んで、変になった」
「…明永の砒素ミルク事件か」
あの頃のニュースを思い出せば、行政は「しっかり、被害者の一生を保証する」と
言っていたが…
「お前、国や会社から金は?金は出ないのか?」
「…?」
「知らないのか?出た筈だぞ?」
「…?」
きっと、この男は行政の目から零れたか、施設の奴に金を取られたか・・
可哀想に…と、ふと思ったが…
「(この思いも偽善なのか?)」
だが、酒井はこの男を警察などに連れて行ってやる気は無い。
元の場所に戻れば、また虐待されるだろう。
警察は偽善とせせら笑うだろう。
その後、酒井はベンチに寝そべり、キチガイは桜の落ち葉で遊んでいた。
背の後ろで騒ぐキチガイ…
「(…いつか、自分でどうにかなるだろう)」
確証は無かった。
-
夜に成り…
遊びつかれて、キチガイは桜の木の根を枕に寝てしまった。
酒井はジャンパーをキチガイに布団代わりに掛けてやった。
ふと、キチガイのズボンにローマ字で名前が刺繍してある。
「ENDOU…遠藤、Y…U…豊…、遠藤豊って言うのか」
そう言えば、自分のツナギは、社宅に置いて来てしまった。
二度と使わない筈だから持って来なくても良いのだが、途端に何か惜しくなった。
「…!」
酒井はまたある事に気づいた。
今読んだこのキチガイの名前…当たり前の事だが、このキチガイにも名前が有るのだ。
まるで、哀れみの対象、人と物の中間にしか見えなかったこの男、「キチガイ」にも、
名前が有るのだ…
遠くから人影が近づく。
だが酒井は構わないでいた。
だが、その人影が、後ろで…
「おい、てめえ」
「…!」
あのヤクザだった。
「二度とその汚ねえ顔を見せるなと…言ったろうが…
そうだ、俺は今国の為に役に立ちたくて仕方が無えんだ」
「…!」
「其処をどけ、キチガイを殺して国の負担を減らしてやる」
「…何て事を言うんだ!」
キチガイは未だ寝ていた。
—— ◇ ——
今度は周りに誰も居ない。
このキチガイを、守ってやれるのは自分だけだった。
「退かねえのか」
「…もちろん」
「じゃあてめえも死ね!」
この前の様に殴りかかってきた・・
「わっ」
間一髪避けるが…
「それえっ!」
ガッ、と鈍い音がした。
男の顎をヤクザが蹴り上げたのだ。
「ふはは、それっぽっちか…警察を待ったって無駄だぜ、来やしねえよ」
そう言いながらリーゼントの髪を靡かせ、ヤクザは懐からナイフを取り出した・・
「ぐ…」
「残念だぜ、このナイフの最初の錆が、うすぎたねえクズとキチガイだなんて」
「(誰が薄汚いクズとキチガイだ!)」
心に火が付いた。
ダウンした状態に油断しているのか、やくざ男は隙だらけの状態で
ナイフを持って近づいてきた。
「…えいや!」
「がっ」
足を払い、やくざ男は倒れた。
ナイフは宙に浮いた。
「…弱者を…いつも踏み躙りやがって!お前のような奴が居るから!」
中学校の頃の不良と、この男が重なる。
悪魔の様な黒尽くめ。
無我夢中でナイフをやくざ男に切りつけた。
「うわっ」
服が裂け、やくざ男の背中に大きな傷が刻まれた。
「…てめえ!俺の刺青に!」
やくざ男は上半身の服を素早く脱ぎ、その体が顕わになった。
長袖のジャケットでは分からなかった、体中の刺青。
某ビールの麒麟が、背中に刻み込まれている。
その背中の麒麟の顔に、深く傷がついたようだ。
「ぶっ殺してやる!」
次の瞬間、ヤクザは男の顔がへこむほどのストレートを繰り出した。
「う…ぐげえ」
男は地面に倒れこんだ。
「てめえのようなアマちゃんのお陰で、日本は屑だらけに成るんだ!」
「…屑だと…お前の世界はケモノの、弱肉強食の世界か…」
「ああ!弱肉強食だ!それが日本の為だ!」
「お前の様な…奴が居るから、弱い奴はますます弱く…」
「黙れ!」
男の顔が思いっきり蹴り上げられた。
「うぎいっ!」
「これで最後だァ!てめえの次はキチガイを殺してやる!」
ナイフを拾い上げ、やくざ男は男の喉目掛けて突き刺そうとした。
その時、何かがもぞっと動いた。
「ぎゃっ」
キチガイ、いや、遠藤が素早く、ヤクザの股間に噛み付いた。
「…起きていたのか!」
「お…兄さん!今…だ!」
「おう!」
股間を抑えて絶叫しているやくざ男に、二人でタックルを仕掛けた。
「う、うわあっ!」
やくざ男は護岸壁の下のヘドロの溜まりに見事に落ちた。
「う…うわっ、ぎいいい!てめえら!よくも!其処に居ろ!殺してやる!おい!」
やくざ男はヘドロに足を取られ、再び登る事が出来なかった…
—— ◇ ——
護岸壁の下ではベチャベチャと汚い音がする。
だが上の二人はもうお構いなしだった。
「…お兄さん、兄貴」
「な、何?兄貴?」
鼻血を止めながら、男は聞き返した。
「兄貴の弟に…して」
「馬鹿言うな、俺みたいなくずに」
「くずじゃ有りませんよ…」
恐らくどう言ってもこのキチガイは付いて来るだろう。
施設にも帰ろうとはしないだろうし…もちろん帰らせても良い事は無いだろう。
一緒に浮浪生活でもした方が良いのか。
「…勝手にしろ、俺の邪魔するなよ、もうこんな町、おさらばだ」
「はい、兄さん」
護岸壁の下で騒ぐやくざ男を無視して、キチガイと男は、お互いを労わりながら
去っていった。
「俺は酒井忠盛…お前は遠藤豊だな?」
「なぜ…分かったの?」
「ズボンのそれさ」
「兄さんには…無いね…」
「今度お前に縫ってもらおうか…おっと、まだ血が」
二人は笑った。
春は出会いの季節でも有る。
(続)
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第二話「印刷所」
あれから二日経つ。
酒井と遠藤は、簡易宿泊所に泊まっていた。
粗末な五畳の部屋の中、うどんを吸い食いながらこれからの事を思うと、
酒井は自然に言葉を失った。
「ああ…おいしい」
「そうか、旨いか」
遠藤豊なる男を見捨てれず連れては来たが、この男は何が出来、
何をするのだろう。
遠くで時報が鳴った。
正午を指しているのだ。
「そう言えば…印刷所でも時報が有ったなあ」
「印刷…所?」
「俺が前に居た所…ああ、印刷所の意味か、簡単に言えば本を作る所だ」
「見たい…な」
何だか気の篭っていない返事と共に、遠藤はうどんの器を置いた。
「もう食ったのか」
「うん、お兄さん」
—— ◇ ——
酒井は、遠藤を連れ、元の印刷所にやって来た。
「建物…無い」
「ああ、潰れたんだよ…おや、でも社宅はまだ有る」
既に重機が入り、粗末なトタン仕立ての印刷所は取り壊されていた。
奥の社宅も、周りを重機に囲まれ、もう直ぐ壊す、と言った所だった。
もっと覗こうとしたその時、後ろで声がした。
「おお、酒井!何してる!」
印刷所の同僚の小久保だった。
酒井より頭半分小さいのに、横周りは一回り大きい。
「ダルマか…」
「うるさいな、もうその仇名は通用しないぜ…おや、そちらは」
「ええと、友達だ」
遠藤は友達と言われてびくついた様だったが、それでもどもりの声で何とか
自己紹介をするのだった。
「え、遠藤…豊、言います」
「そうか、遠藤豊言うのか」
小久保は初対面の遠藤にも遠慮なく接し、口調まで真似る。
酒井は苦笑いするしかなかった。
確かに小久保は失礼だが、遠藤の緊張を解すにはこんな感じが良いのかも知れない。
だが、その小久保は急に表情を曇らせている。
「なあ、酒井…まあ俺はこうして居るがね、笑い事じゃない事が起きたのだよ」
「え、何だい」
「大木社長が…自殺したんだ」
酒井は凍り付いた。
遠藤は、おそらく自殺と言う事が理解できないのか、キョトンとしている。
「練炭だ、車の中で」
「…社長が」
「借金か、何にせよ…身寄りが居ないらしかったな」
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小久保に連れられ、大木社長の自殺現場に来た。
そこは時間制駐車場…俗言にコインパーキングの一角で、
今はもう無いが、軽自動車の中で練炭自殺を行ったと言う。
「俺も昨日新聞で知ったんだ…驚いたよ」
一角にはコーンが置かれ入れない様になっており、車があった場所にはチョークで
細工がしてあった。
遠藤は不思議そうに、その一角に近づいた。
「おい、コーンの中に入るなよ」
小久保が、流石におかしいと思ったのか聞いてきた。
「何だ、お前の友達は」
「ちょっと…頭が弱いのさ」
本当は、こんな事も言いたくなかったが、あの様子を説明するには
そうするしかなかった。
だが小久保は別に軽蔑の意を表さなかった。
「そうか、じゃあお前しっかり見てやんないとな」
「う、うん」
「…ああ、手を合わそう、社長に」
パンと、手の音がした。
—— ◇ ——
その後、小久保のアパートに向かった。
二階建ての、社宅よりはマシそうなアパートだった。
便所だって共用じゃないのだ。
「これがその新聞」
ちゃぶ台に新聞を広げ、小久保は記事の場所を指差す。
新聞の隅の方にそれは書いてあった。
「最後の所持品は…車のキー、新聞紙、傘、石炭…聖書?」
「多分それ、うちで印刷した奴だぜ」
「ああ…そう言えばあったなあ」
遠藤は、二人の後ろからそっと覗き込んだ。
ねずみ色の紙面、黒い印字。
隣の紙面にある写真はカラーだが、なんだか物騒な写真だった。
「政府、反対派へ強硬姿勢」
沢山の人が、農道の様な場所で片手を上げて怒っている。
遠藤はこんな悲しい雰囲気をあまり快く思わない。
酒井が、呟いた。
「社長…隅っこだなあ」
「…ああ」
練炭自殺をした場所はコインパーキングの隅。
紙面の位地も隅。
そう言えば、印刷所の社長室も隅。
しかし小久保は、ダルマのように振り返した。
「でも、俺達の中では真ん中だったぜ」
酒井もうなづいた。
遠藤も続いて、良く分からない良さげな雰囲気にうなづいた。
しかし、それでも自殺は覆らないのだ。
酒井は、少し悲しい顔をして、新聞を畳んだ。
「これから酒井はどうする、仕事は見つかったか」
「俺はまだだ…これから何とかしないとな」
「しかし新卒シーズンだしなあ…俺も仕事が無いんだ…まあ良い、
今日は仕事や社長の事を考えながら一杯やろう、そいつも」
遠藤は指差されて、笑った。
(続)
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第三話「ヤクザ再び」
小久保宅で一晩を明かした。
ビール瓶の転がる音と共に、小久保のいびきが聞こえる。
まったく、酒井は酒を飲むのが久しぶりで赤くなってばかりで、
遠藤はおそらくこれが初めてなのか、楽しげに飲んでいる。
「おい…豊…よせっ、飲みすぎは…ううむ」
「おいしい…もう無い…」
「お前ばっか…飲んで…ZZZ」
「ZZZ…」
酒の前には酒井も遠藤の様になってしまう。
だが、その頃…
「尼子、やっぱり臭いぜ」
「あいつ等のせいだ、あのキチガイとクズが」
「もう逃げたと思うがよお」
この前、ヘドロに落とされたヤクザが、仲間を連れて町内を歩いている。
「いいや、まだ居るんだ、今朝近くの宿泊所から出たのを見た奴が居る」
「でも違う町内だろ」
「んな事は良いんだ!」
夜中だからこの尼子なるヤクザの声が強く響いた。
途端に、近くの家の電気がついて、怒号が飛んでくる。
「何時だと思ってるんだ!」
尼子はヒートアップする。
「うるせえ!バカ!死ぬまで寝てろ!」
「なんだとォ!」
「おい尼子、止せ、ジジイなんか相手にするな」
「ちっ…」
バカ、永眠呼ばわりされた老人が怒って家の外へ出てくると、
もうヤクザ達の姿は無かった。
—— ◇ ——
朝が来た。
目覚まし時計が鳴るが、そんな物の前より酒井達は皆起きていた。
遠藤が早起きして、酒井と小久保を起したのだ。
「俺達はもう出る、一晩有難う」
「もう少し居たって良いのに」
「いや、俺達もこれから別の道を…な」
「そうだな…印刷所はもう無い…」
当たり前の事だったが、それでも酒井と小久保にはまだはっきりと
感触が掴める出来事ではなった。
「…社長、本当に死んじまったんだなあ」
「上ってきて仕事が無い時、社長が居なかったら、どうなってたろう」
酒井はそれ以上言葉が続かなかった。
もし印刷所が潰れなければ、遠藤を助ける事は無かったかもしれない。
その方が良かったのか分からないが、運命を恐ろしく感じた。
「じゃあな」
「何かあったらまた教えてくれよ」
酒井と遠藤はアパートを出た。
だが、今見ると、遠藤は何故か昨日のビール瓶を持っている。
「そんなのどうするんだよ」
「兄さん…これ、面白い無いか」
「無いね」
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無理に放させたって遠藤が嫌がるのは分かっている。
酒井はそのままにしながら、駅の方に向かった。
「東上線で池袋に行こう」
「い…け?」
「ここより大きな所だ、凄くな」
「お母さん…お父さんの所…行かないですか?」
「お前の?」
「兄さんの…」
酒井は、渋いとも、何とも言えない顔をした。
「俺の親に合わす顔なんて無いよ」
日が昇ってから一時間はしたが、まだ街には人の姿がまばらだった。
「早く出ないとな…違う街に一応来てるからって、距離はそんなに遠くないんだ」
「何の…距離です?」
「あの、ヤクザに有った所からの距離だよ」
住宅街の真ん中を通ると、しかめっ面の老人が有る家の前で道を掃いている。
酒井は気を利かして、声をかけた。
「ご苦労様です」
「…ん、ああ」
遠藤も続けた。
「ごころーさまです」
「え…う、む」
—— ◇ ——
その時、後ろの方で声がした。
「居たぞ!あいつだ!」
ヤクザ、しかも三人だった。
こっちへ走ってくる。
酒井も気づいて、逃げようとする。
「この前の奴だ、連れも居やがる!遠藤逃げろ!」
遠藤も続こうとするが、老人がヤクザ達に喚いた。
「昨日騒いだのはお前らかぁ!」
「昨日のジジイかよ、うるせえな!」
「何だとォ!」
老人は、遠藤の持っていたビール瓶を奪うと、それを手榴弾の様にヤクザ達に投げつけた。
「尼子、よけっ…ぐげっ」
ヤクザの連れに当たる。
「なっ…ジジイ!てめえ!」
「見たか、旧軍の捌きを」
酒井と遠藤はその隙に逃げ出した。
走りながら、遠藤が残念そうに嘆く。
「ビ、ビール…」
「あんなのどこにでも有るさ!」
ヤクザ達も、酒井と遠藤が逃げたのを見ると、ビール瓶投擲で頭をやられた一人を放って…
「ジジイ!邪魔だ!おらっ」
「うわっ」
箒で応戦しようとした老人も押し退けて、急いで追いかけた。
町内の人たちが、異変を感じて、窓や扉から顔を覗かせて来たが、
彼らに見えたのは、悔しそうに地団駄を踏む老人と、頭を抱えてうめく不良だった。
—— ◇ ——
町内を縦横無尽に、訳も分からず駆け巡ったが、息は切れ、
駅は何処かも分からない。
そして、運命の時が来た。
「なっ…先が無い」
「川…」
柵の向こうは、幅の広い、汚い川だった。
恐らくこの前ヤクザを落とした川と同じかも知れない。
ヤクザ達も追いついた。
「ふう…ふう…尼子、来たぜ」
「お…う…手こずらせやがって」
尼子が、ナイフを取り出した。
連れが周りを伺う。
「おう、今ならヤれる」
「覚悟しな、キチガイとクズ」
酒井は、覚悟を決め、腕をまくった。
遠藤も、唾を飲み、涙ぐみながら、腰を据える…
だが、その時、酒井達の背の後ろからポコポコ音がする。
「…遠藤、いちにのさんで…」
「…うん」
「後ろにっ!」
尼子がナイフで突き刺しに掛かろうとしたその時、酒井と遠藤は後ろに飛んで柵を飛び越え、
川に飛び込んだ。
「なっ!」
「キチガイが!」
尼子と連れが川を覗き込むと…
酒井と遠藤は、ゴミを乗せた小さな箱船に飛び乗っていたのだった。
「何だあんた等!」
船長…と言うには威厳の足りない男が、ゴミの山に飛んできた二人に驚いた。
後ろの方の操舵室から、赤い顔を覗かせている。
「すまない、事情が事情で…あの、近くまで乗せてくれないか」
「すみません、すみません」
船長は、悪気がなさそうなのを見ると、苦い顔をした。
「仕方ねえなあ」
こうして二人はヤクザから再び逃れたのである。
(続)
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第四話「電車に乗って」
「四〜百余州をこ〜ぞる十万余騎の敵〜♪」
船長の歌声が護岸壁に響き渡る。
ここなら誰も邪魔しない。
船中央のゴミを貯める窪みから上がって、酒井と遠藤は
川の先を見ていた。
酒井は、どこで降ろされるのか知りたかった。
「おじさん」
「国難此処に見る〜弘安四年夏の〜頃〜♪」
「おじさん!」
「何だ!」
「何処で降ろしてくれるんですか」
船長は顔を覗かせた。
「ゴミ山で下ろすからな」
「駅に近いですか」
「何の、分からん」
この辺りに居てはまたヤクザに見つかるかも変な事に巻き込まれるかも分からない。
とにかく、電車に乗って、一番近くのターミナル駅である池袋まで行かねばならないのだが…
ポコポコ変な音を出しながら、汚い川を船は進んだ。
油の臭いは、次第に何とも言えぬ酷い臭いに変わってきた。
遠くに、ゴミ溜めが見えてきた。
—— ◇ ——
ゴミ溜めからクレーンが伸びてきて、何かを吊り下げる。
遠藤が何を思ったのか、それに飛び付こうとする。
「バカッ、それはお前らを運ぶんじゃないんだ、止めろっ」
「豊!ヤメッ」
「はい」
クレーンからは分銅みたいなのが吊るされていた。
「とにかく離れた方が良いぞ、ゴミを取るまで上に登れないからな」
急に、船のゴミ溜めから鉄くずがどんどん飛びついて来た。
どうやらこのクレーンは電磁石を吊るしていて、金物を回収しているらしい。
半刻程も待って、ようやく酒井と遠藤は陸に上がった。
周りには、空き缶を押しつぶしてさらにブロックにしたのとか、
ビニールを薄く延ばしたのだとか、古紙の色のぐちゃぐちゃに固まったのとかが
色々重なっておいてある。
しかしとにかく匂いが酷く、口に手を当てて周りを見回す酒井の袖を
さっきの船主が引っ張った。
「出口はあっちだ!今度は上から乗って欲しくないね!」
酒井と遠藤はお辞儀して出て行く。
「どうも有難うございました」
「どーも」
トタンで囲われた塀の外へ出ると、周りはさっぱり灰色掛かった世界だった。
周りは塀とその向こうに見える工場の屋根や空き地だけで、ごうごう音がしている。
「早く出た方が良いな」
「息…苦しいです、兄さん」
「空気が悪いんだ」
-
「多分、あっちが駅だと思うのだ」
「おまわりさんに聞いたら…」
「警察は俺達の敵だぜ、それにお前、元の場所に戻されるかも知れないぞ」
それを聞くと、遠藤の目に涙が溜まり始めた。
「わ、悪かった、酷い事しかなかったもんな、さあ行こう、もうあんな所にはいさせないからな」
「あ…あ…ありがとう」
歩きながら酒井は、それほど遠藤が自分の考えているほどキチガイじゃないかも
知れないと考えていた。
自分自身も偏見を持っていた。
遠藤は確かに頭が足りない、知らない事も多い、それにグズだった。
しかしあのヤクザが喚いてた程の吃音でも無いし、
風呂に入れば臭いもしない…
全ては、虐待し保障を流さない施設と会社が悪いのだ…
「兄さん、電車の音」
「ん」
ガタンガタンと音がする。
「近くだ」
「近くですね」
角を曲がると、直ぐに駅前の通りだった。
—— ◇ ——
駅前は繁華街で、酒井は見覚えがあるが遠藤は初めてだったに違いない。
周りを良く見回し、何でも楽しそうに見るのだ。
「豊、池袋に行けばもっと大きいし楽しいぞ…金は無いが」
「池袋は池袋の…ここにはここの」
「あー…ああ、そうだな」
背丈は遠藤の方が頭半分大きい。
動くと回りに良く見えるから、酒井はまたヤクザに見つからないかと
冷や冷やしていた。
「ほら、駅はあっちだぜ」
早く電車に乗り込みたい。
切符を買い、東上線の普通に乗って、ゆっくりと二人は揺られ始めた。
電車の中に人はあまりいない。
「電車に乗るのは初めてか」
「うん」
「電車の中じゃ静かにするんだ」
遠藤は言われた通り静かにしていたが、時折酒井の肩を叩く。
「あれ、なに」
「あれ…?」
遠藤の指差す先には、大衆紙の吊り広告がある。
そして水着の女が三人並んでいる。
「巨乳グラビア三人娘綴じ込み」
「そうか…お前も男だもんな…」
「そう、好き、あの車みたいなの」
「え?」
水着女の横に、自衛隊の演習で使われた戦車が写っていた。
「自衛隊大演習、予算だけで大炎上」
「ああ、あれはな…強い車だ、何でもやっつける」
「良いなあ…」
遠藤の程度にあった答えかどうか、ちょっと酒井自身にも分からなかった。
(続)
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第五話「黒」
池袋に近付くに連れ、次第に人が乗り込んでくる。
列車の中の椅子は埋まり始め、埋まりつつ、そして埋まり…
「今、中板橋か」
「あと…何駅…ですか、兄さん」
「大山、下板橋、北池袋…池袋まで四駅か」
「遠い…?」
「そんなでも無いさ」
遠藤はそれを聞くと、後ろを向いて車窓の向こうを見る。
東部東上線は埼玉と東京都を繋ぐ路線だが、和光市から先都内に入ってからは
街の真ん中を走るため、あまり景色に広がりが無い。
線路沿いの建物には、列車の乗客に向けた看板が多数並び、
急行なら「そんな物見なくても良い」と、まともに見える事も無くビュンビュン飛んで行くのだが、
普通は「各駅で暇でしょうから見てなさい」と、ゆっくり見れる。。
酒井もいつの間にか車窓の外を、遠藤と一緒に眺めていた。
印刷所がまだ何とかやれていた時は良く池袋まで行った物だが、
最後の半年なんか、さっぱり行ってないのだ。
印刷所が潰れて行く様に、酒井の心も潰れていたのかも知れない。
だが、遠藤が来てから多少、大変な事も有るが、気分が晴れた。
速度が落ちてくる。
「まもなく〜北池袋〜北池袋〜」
「あと一駅だ」
「そうですか」
気付けば、遠藤と酒井の座ってる席は全て埋まり、向こうの横席に、一人分開いている。
酒井はそれを見て、何となく嫌な気がした。
「(二人以上乗り込めばこりゃ椅子取りゲームか、嫌だなあ)」
—— ◇ ——
北池袋駅のプラットホームに着き、列車が止まるとプシュウと言う。
遠藤はこれを聞く度に微笑むのだ。
「豊、この音の何が楽しい」
「列車が…疲れたと言い…ます」
「そうか、俺にも何となくそう聞こえるよ…」
列車のドアが開いた。
直ぐ横のドアから、和服を着た老婆と、黒いジャケットの男が乗り込んできた。
一瞬、酒井も遠藤もドキッとしたが、あのヤクザでは無かった。
だが…
たった一つの席に、少し先に乗り込んだよぼよぼのお婆さんが座ろうとした。
だが、その後に黒ジャケの男がお婆さんを弾く様に入り込んでむんずと座った。
「…」
「…」
周りは何も言わない。
お婆さんが少しうめいた。
「うう…」
「…あ?ババア、何か文句有るか?」
列車のドアが閉まった。
-
「あ、足が辛うて…」
「んな事で座りたいのかァ、まあ俺には関係ねえな、ノロいのが悪いんだよ」
他の乗客に無理やり聞かせる様に黒ジャケの男が言い放つ。
酒井は、この前の遠藤に因縁をつけるヤクザを見た時の様に、
無性に嫌になって来た。
「豊…」
遠藤の顔を見ると、彼も何だか嫌と言うか、悲しい顔をしている。
「(見過ごせない…)」
酒井が立ち上がると、遠藤も立ち上がった。
「お婆さん、座ってください」
「すわって…下さい」
お婆さんは、何度も頭を下げ、小声でお礼を言いながら、ちょこんと座った。
結われた銀色の髪が揺れ、しわだらけの顔はこれ以上無い程クシャクシャになっている。
二人分の席にゆったり座れるのだ。
周りの乗客は顔を自分の足の方に埋めたり、何ともいえない顔をして見ている。
その時、黒ジャケの男が喚き出した。
「あ!おい!俺への当て付けかよ!」
「…静かにしな、列車の中だぜ」
「うるせえな!席に座っちゃいけねえのかよ!」
「俺はお前の事は何も言ってないぜ…ただ譲っただけさ」
お婆さんがぶるぶる震えている。
そのお婆さんを守るように、遠藤が屈んでお婆さんの機嫌を聞いた。
「だいじょぶ…ですか」
「…」
「安心…してください」
「…ありがとう、ありがとう」
お婆さんが手に持っていた折りたたみ式の杖もぶるぶる揺れる。
一駅の間がこんなに長いとは…
黒ジャケの男がまた喚く。
「おい、池袋に着いたら二人とも降りろよ、話を付けようじゃねえか!え!」
「悪いが俺達にも都合があるんでね」
「知るか!お!あ!」
「お前には…お前の取った席が有るだろ、静かに座って乗ってれば良いだろう」
「何だてめえ!俺のプライドを傷つけやがってよ!」
「まもなく〜池袋〜池袋〜」
列車は何事も無い様に池袋の東武三番線に滑り込む。
「降りろよ」
「…お婆さんには手出さないかい」
「ああ?そんなババア何があっても関わらねえよバカ」
酒井は遠藤に後ろに回した手で合図した。
手を丁度チョキの形にして、人差し指と中指を交互に揺らした。
遠藤はゆっくり頷いた。
—— ◇ ——
ドアが開いた。
「おいっ…」
周りの客は固まっていた。
黒ジャケの男が立ち上がった。
だが二人は…
「お婆さん、達者で!」
「バイバイ!」
急いでホームに駆け出した。
「待てェ!この野郎ッ!」
黒ジャケの男も急いで出ようとするが、そうは出来なかった。
出ようとした時、足に何か掛かってホームに転がってしまった。
足に掛かったのは、伸ばされたお婆さんの杖の取っ手だった。
申し合わせた様に、他の乗客が押さえ込んだ…
二人は遠くからその様子を見た。
駅のホームが騒然としている。
大勢の人がそっちに寄って行く。
「俺達はこっちだ、お婆さん無事らしいし」
「はい…でも…大事になった…ですね」
「あの男のせいだよ」
二人は南口改札を出た。
メトロポリタンプラザやらデパートやらが目の前に有った。
しかし二人にはこんな大きな建物はあまり関係無い。
(続)
-
第六話「巡る文字」
芸術劇場前の広場までやって来た二人は、ようやく落ち着いた。
ベンチに座り、周りを見回した。
四方を、建物が囲んでいる。
酒井は、まるで金持ちの子供が自慢するみたいに遠藤に言う。
「どうだ、こんな様子見た事あるか」
しかし遠藤は見た事がある様に頷いた。
「何だ、つまんないの」
「すい…ません」
「冗談だよ…ところで何処で見たんだ」
「分からない…」
「雑誌か何かだな」
酒井は適当に結論を付けた。
急に息が詰まって、喋りたくなくなって来たのだ。
広場には警官じゃないにしろ、警備員や変なゼッケンを付けた連中がうろうろ居た。
そして、浮浪者も居る。
見ると、何かの指導員みたいな女と、ニット帽を被ってセーターを着た浮浪者が揉めている。
「何だ、関わるなっ」
「しかしおじさんね、都の条例によって保護しなきゃ…」
「だまれっ、俺は今日のこの時まで一人で生きてらあっ、保護なんかいらねえよ、偽善者め!」
偽善者と言う言葉が、その部分だけ酒井の胸に響いた。
遠藤は困った顔をしてこの揉める様子を見ている。
酒井は動けなかった。
どちらが正しいのか良く分からなかったし、何より偽善と言う言葉が響いているのだ。
あの、遠藤を最初に助けた時にパトカーの後ろで寝ながら聞いたあの言葉が
トラウマに成ったのかも知れない。
「何だっ!放せ!こら!」
「良いから、早く」
「保護施設へ」
もがく老浮浪者を、二人掛りで連れて行く指導員。
周りの浮浪者たちも困った顔をしていた。
指導員達が向こうに消えていった。
—— ◇ ——
酒井は思い切って、近くの若そうな浮浪者に聞いてみた。
「あの…」
浮浪者は振り向いて酒井を見ると、少し笑った。
酒井も少し汚れた服装だったから、同種とでも思ったのかも知れない。
「やあ」
「あの人は何をしたんです?」
「ああ…あの石太郎と言うおじさんはね…ただ目に付いただけなんだよ」
「それはどう言う」
「水道でただカップを洗っただけなのに、あの奴らと来たら私用で使うなと言いやがる」
水道でジャブジャブとカップを洗っていた石太郎に、あの指導員は
何か別の事で腹の虫でも悪かったのか因縁を付け、仕舞いにはああやって無理やり
変な基準と有るか無いかも分からない法令で引っ張って行ったのだという。
「それは酷い」
「だろう、でも逆らうと俺達も…」
そう言うと若い浮浪者は再び背を向けた。
「ああ、仕事が無く公園で少し場所を借りる位でああも騒ぐとはね」
酒井はその言葉を聴いて、うな垂れて元の場所に戻った。
遠藤が酒井の顔を覗ったが、様子を見て、何も言わなかった。
「遠藤…別の場所に行こう、ここは気分が悪い」
「…はい、兄さん」
-
暫くして、二人は池袋駅の地下を歩いていた。
様々な改札口や通路を通る。
雑踏の中で、二人はまるでその雑踏が別世界の様に歩んでいく。
「何処に…行くんです?」
「反対側だよ、西部口だ」
「でも…その後は?」
「…」
確かに見通しが無かった。
思えば、遠藤を助けてから、さっぱり無計画だった。
「…まあ色々出来るんだ」
酒井は、自分でも訳分からずにそう言ってみた。
遠藤も、訳は分からないだろうが頷いた。
しかし、頷いて直ぐに遠藤は足を止めた。
「おや、どうした」
「…あれは」
「ああ、あれは」
酒井は、また遠藤の「なぜなに」が始まったかと思ったが、心広く応える。
まずは通路の端によってから見ると、遠藤が見ていたのはキオスクだった。
「キオスクだ、色々、細々とした食べ物とか本とか売ってるんだ…」
そう言えば、少し喉が渇いた気がする。
遠藤が丁度良い時に気付いた、と酒井は思った。
「何か飲むか」
「はい、それ…良い」
—— ◇ ——
「いらっしゃいませ」
メガネを掛けた売子のおばさんは無愛想に応える。
「どれが良い」
「ええと…」
遠藤は、飲み物の自由まで施設で束縛されていたのか、色々迷っていた。
「兄さんは…何を飲む」
「あー…じゃあ俺はオロナミン」
「じゃあ…僕も」
「はいオロナミン二つ220円」
キオスクの脇で、酒井はそれの飲み方まで実演して見せた。
「こうやって…それ、飲むんだ」
ピンの穴を持って、ぐっと上に持ち上げる。
するとキュッとオロナミンの蓋が開いた。
飲み終えた後に、遠藤がまた言った。
「兄さん…あの本、欲しい」
「あの本?」
もう一度キオスクの前に立って、遠藤にどの本か指させると、
あの黒ジャケの男と立ち向かった電車の中で見た広告の雑誌だった。
「週間夕日、一冊」
「330円」
巨乳三人娘なんか知らず、遠藤は戦車のページを開いた。
「後で読め、後で」
「はい、兄さん」
—— ◇ ——
駅の向こう側に出ると、大横断歩道の向こう側にまたビルの壁が広がっている。
大勢の人が往来して、人のミミズが動いている様だった。
邪魔にならない様に、地下鉄線出入り口の脇の花壇の縁に腰掛けて、
酒井は遠藤に雑誌を読ませた。
しかし、遠藤はあまり文字が読めないらしい。
「これ…」
「陸上自衛隊…演習…つまり軍隊の遠足だ」
「へえ」
だが、数ページめくると、遠藤が思わず声を出した。
「アッ」
「!?」
遠藤が指差すページのそれは、何かの病院の概観だった。
(続)
-
第七話「怒り」
「そりゃ何処の何病院だ?」
半ば奪う様に遠藤から雑誌を引き受け、まじまじと見つめる。
週刊誌のその病院は、白い三階建程の大きさで、まわりを塀に囲われていた。
『無借金経営を続ける優良保護病院施設』
「保護病院…?」
「これ…僕の…病院」
「な、何」
太いポップな字体は、紙面上のその病院の雰囲気を良さ気に見せ、
笑顔の職員達の集合写真もまったくケチのつけ様が無く思えた。
—— ◇ ——
『優良経営と誰もが認める、東上線沿線第一の保護病院、大聖徳記念病院』
『第一級のサービスを供与しながら、無借金、黒字、満点の経営を行える秘密』
こんな金の絡む記事のその物の内容はどうでも良かった。
それより写真に目が行く。
『精神病患者もここなら安心のライフ・スタイル…』
そう言う題の下で、白髪の老婆がベッドに乗せられ、
作り笑いの様な顔で見ている。
その横では、対照的にまじめ腐った顔で白衣の上にエプロンを着た看護師が
同じくカメラに向いている。
遠藤がしきりに写真を指した。
「こ…この人はね、兄さん、トメさんと言って…」
「お、おう」
遠藤が指差したのはベッドの男だった。
「毎日…毎日…婦長さんに、タバコの火を…押し付けられている」
「何、どこに押し付けられている」
「背中…婦長さんはお灸言います…」
お灸と称して、背中にタバコの火を押し付ける婦長。
「じゃあ…お前は」
「これ…見たでしょう、兄さん」
遠藤はつたない手つきで腕を捲くった。
腕には、沢山の何かぶつけた跡が残っていた。
「ああ…たった三日も居ないで…」
元々居た保護所は潰れて、無責任にも遠藤は外に放り出され、
酒井が最初に助けて新たに保護された場所がこの病院だった。
また、運命の残酷さを感じた。
「婦長さん、最初に僕を見て…こう言う『なんでこういうのがくる』」
「…」
僅か数日の出来事だが、遠藤にはしっかりそれが刻み込まれたのだ。
酒井は、何と言って良いか分からなかった。
-
遠藤は数日の間に、理不尽な地獄を経験し、また見たに違いない。
悪徳の婦長や看護師、もしかすれば医者等に身を変えた獄卒達が、
一生懸命に、罪の無い奴を虐めるのだ。
しかし、遠藤は酒井の想像しない事を言った。
「…兄さん、ごめんなさい」
「何を言うんだ、俺が謝らなきゃ…」
此処で酒井は言葉を詰まらせた。
確かにあの場で酒井をヤクザから助けなければ、あの場所には送られなかったかも知れない。
だが、それはヤクザに遠藤がやられていたと言う事だった。
「兄さんのせいじゃない…僕が、もう少し、頭が…良かったら」
酒井はそれに返事が出来なかった。
池袋駅前は人が途絶える事無く往来し、二人の沈黙は一切この雑踏に意味を為さない。
「…もう、その雑誌は捨てるか?」
「いいえ…兄さん、これ…僕の、十字架」
どうして長らく病院で過ごしあまり物事の分からない筈の遠
藤が十字架と言う言葉やその意味を知っているのか、
またどうして自分のせいにしたがるのか、酒井には分からなかった。
遠藤は雑誌を手に掴んでいたが、あまりに強く掴むので、シワが酷くなった。
—— ◇ ——
二人は再び歩き始め、駅から離れた。
今度は遠藤がそれを求めたのだ。
「歩こう、兄さん、歩こう」
サンドイッチマンが、広告板を持って雑踏の中で杭の様に立っている。
二人は危うくその動かない奴に人の流れのせいで当たる所だった。
『サンシャインビル地下前面新装』
しかし酒井にも遠藤にも、周りのビルはあまり意味が無い。
二人はもう浮浪者同然なのだ。
「(サンシャインビルがどうしたって言うんだ、六十階建ての鉄くずじゃないか)」
酒井はそう捻くれて考えたが、遠藤はまったく逆の様だった。
「兄さん、サンシャインビル…どんなですか」
「でかいビルだよ…鉄くずだ」
「行ってみたい」
遠藤はさっきの怒りやら悲しみやら忘れた様だった。
そっと遠藤の手元を見ると、今度は雑誌は普通に掴まれていた。
「見るだけにしよう」
「はい」
—— ◇ ——
サンシャインビルは、流石に鉄くずとは言えなかった。
周りに大勢の人が居ると言うよりは群がっている。
横断歩道では、水族館にでも行ったのか、サカナクンみたいな魚の帽子を被った子供と
その親にすれ違った。
見上げるだけで大変だった。
「良く空きが出ないもんだなあ」
「この中に、人…何人居る?」
「さあね」
「このビルは…誰の?…神様?」
「神様はもうちょっと高い所に居るな」
酒井は意地悪にも、もうちょっと高い所を考えた。
横浜のランドマークタワーなんかがそうなるのだろうか。
一時間ぐらい意味も無くサンシャインの周辺を回っていたが、
遠藤は飽きを見せなかった。
確かに常人とは違う。
(続)
-
第八話「炊き出し」
夕刻が近付くに連れ、辺りには胡散臭いのが増えてきた。
男なのにアイシャドウを付けて、赤いジャケットを着て、整髪剤で尖らした頭を辺りに目立たせる男。
そんな男がそろそろ出ようとしていた酒井と遠藤の横を通った。
整髪剤の甘ったるい匂いがする。
「あれ…何?」
「分からん、パンクでもやってる奴だろう」
遠藤はパンクの意味が分からなかったが、とにかく酒井より先に出ようとした。
「待てよ、俺を置いてく気か」
「ごめんなさい、兄さん」
高層ビルが遠くなっていく。
その背に、早くも夕焼けの兆候が見えた。
—— ◇ ——
池袋駅前のカプセルホテルに一夜取った二人は、ぐっすり眠ったに違いなかった。
この前の簡易宿泊所では、汗の匂いが部屋に染み付いていて、あまり居心地が良くなかったが、
このカプセルホテルは、寝床が寝台特急の二等並のスペースしかないのに、良く整っている。
だが、直ぐに金が飛んでいく。
酒井がその日見た夢は、薄野原で折鶴となって空を飛ぶお札だった、それも千円札だ。
「ああ、飛んでいく、飛んでいく、ところで此処は何処だ?」
翌朝、ドアと言うか蓋の叩かれる音で眼が覚めた。
「兄さん…朝です」
「ん」
午前七時。
印刷所で働いていた時ならもうとっくに起きていた時間だった。
従業員が、朝の放送を流している。
『宿泊の方には…朝食を…ご用意しております…』
「朝飯が付くとは儲けたもんだ」
酒井は朝飯が付くとは思っても聞いても居なかった。
—— ◇ ——
長机に花柄のシートを敷いただけの食堂。
サンドイッチが出てきて、お茶やジュースに牛乳は飲み放題だった。
「良く噛んで食えよ、とにかく今日は仕事を探さにゃならん」
「家は…どうするんです」
「どうにかなる」
勤めていた印刷所には保障だの保険だの小難しい事は無かった。
毎月、決まった日に決まった額のお金が出て、家も後ろの社宅が有った。
多分、十分に違法な状態だったのだが、あの底辺の様な状況ではどうにもならなかったろう。
「ああ、もう九時か」
「出ましょう…兄さん」
「おお」
-
池袋駅東口の西武の看板が朝日に照らされている。
右翼の街宣車が、駅前の分離帯に止まって、大声を張り上げている。
「憲法九条改正、愛国教育…日本国は欧米主導の手より脱却するのであります…」
酒井は、まだ決まってもいないのに決まった様に話すこの右翼が嫌いだった。
頭がおかしくなって自分だけの未来にタイムスリップしてしまったのか。
「見ろ遠藤、お前のお友達だ」
酒井はそう言って、直ぐに後悔した。
また、遠藤をバカにしてしまった。
「兄さん、僕は…あんなに怖いですか?」
「いや、いや、冗談だよ、何でもない」
「大東亜共栄圏下における、アジアの解放、文明化、これを欧米各国は未だに黙殺し…」
多分、こんな奴が偉そうに人を虐めて困らせるのだ。
酒井は嫌になって、ぽっかりと大きな口を開けた様な駅の入り口に潜った。
駅の掲示板には痴漢禁止だの、暴力反対だの、言っても言わなくても変わらない様な
ポスターが沢山貼ってあって、辟易した。
そんな中で、赤い字体が目に付いた。
「イエスの愛協会 炊き出し」
教会ではなくて協会らしい。
どっちにしろ布教まがいの事ををされるのだろうが、食い物が手に入るなら何でも良かった。
「遠藤、南池袋に行くぞ」
「仕事は…?」
「後で良い」
遠藤は、酒井の無計画さに親しみを感じた。
—— ◇ ——
南池袋の公園は直ぐ目に付いた。
この前見た様な浮浪者が何人か居る。
公園の前には軽トラが何台か止まって、炊き出しの準備をしていた。
酒井と遠藤も公園に入り、ベンチに座った。
つい昨日も同じ様に座ったのを遠藤は思い出した。
「昨日と…同じ」
「今日は食い物が貰えるぞ」
「でもまだ時間が…」
その時、さっきの右翼の街宣車が公園の側を通り過ぎた。
軍艦マーチを流している。
「嫌な物見たな」
「かっこ良かった…」
「何がだね」
「音楽が」
そんな内に、時間が来た。
宣教師が黒い服を靡かせて、公園の中央に場を用意している。
こんな服でスズメバチのの巣の近くで宣教でもしたら直ぐに刺されるだろう。
ブルーシートが敷かれ、宣教師は端に立って、浮浪者達をそこに座らせた。
「幸なるかな貧しき人、天国は彼らの物なり」
浮浪者を前に侮辱と言うか冗談で済まない様な事を宣教師は話しているが、
浮浪者達は適当に過ごしている。
「イエスは当時蔑まされていた、収税人や乞食、女性に自ら交わりました」
浮浪者の一人が、誰かに小声で冗談を言っている。
「女と交わったとよ」
「バカ、そう言う意味じゃねえよ」
聞こえてかそうでないか、宣教師の声が次第に大きくなっていく。
「神とは愛であります、恵みを我々にもたらしてくれます」
酒井は、愛を伝えると言う割には随分大声を出すので内心これは大丈夫だろうかと
思い始めて、表情が冴えなくなっていた。
宣教師がアーメンと言うと、そこは皆で、信者だろうが信者で無かろうが、アーメンと言っていた。
もう常識なのかも知れない。
そして皆、昼食の豚汁と飯に有りついた。
人の良さそうな、エプロンを付けたおじさんがカップを此方に寄越して来る。
「どうぞ、主の恵みが有ります様に」
「ああ、恵みだねえ」
酒井は何気なくそう返したが、おじさんは笑って更に返した。
「そうです、全ては恵みなのです」
酒井の脳裏には、天国から重機が羽を生やしてやって来て、当然の恵みの様に
印刷所をぶち壊す様子が浮かんだ。
遠藤は、特段何も言わないし、思い浮かばなかった。
(続)
-
第九話「軒の下」
炊き出しの豚汁に浮かぶ芋を見ながら、遠藤はさっきの話が
一体何なのか考えていた。
「サイは怒るかな、不味い物…?」
「何、どうした?」
「何でもありません…兄さん」
あの宣教師は、趣味の悪いミニバンに乗っている。
左右に「イエスの愛協会」とデカデカ書いて、しかも「愛」の字が大きい。
「…もっと何か聞けば、恵んで貰えるかな」
「兄さん…あの人たちは…サイが怖いんですよ、だから…おいしい物を作ります」
「あー…そうなのか」
遠藤が変な事を言っても、酒井はそれ程気にしない事にしている。
それより遠藤の顔に無精ヒゲが生えている。
もしやと思って、自分の顎を触ると、当然酒井にも生えている。
「此処数日鏡なぞまともに見なかったからなあ」
「ヒゲ…」
「んな事はもう良い…とりあえずあの宣教師に取り入って…何か恵んでもらおう」
—— ◇ ——
酒井は遠藤を連れて宣教師の所に行った。
「ええと、お名前何て言われましたか」
宣教師は、何を考えているのか微笑んでいる。
「パウロ小西宗麟です、改めて宜しく」
その大層な名前を聞き、遠藤がムニャムニャ言った。
「は、パアロコニシソーリンさん…」
「そうです、何か御用ですか?」
「ええと…あの…サイは怖いでs」
「いやいやあのですね、イエスキリストの愛は、その…知的障害者にも届きますか?」
酒井は適当な事を言って割り込み、遠藤は黙り込まされたが、
小西は未だに微笑んで返してくる。
「もちろんです、イエスそして主は全ての命を慈しみます」
「だと、良かったな遠藤」
「はい…はい、良かった…はい」
「いやあ、ここで彼是一年ボランティアをやっていますが、主にこうも関心を持たれる方はあまり居ません」
しめた、と酒井は思った。
この小西宗麟なる大層な名前は大層な笑みを浮かべ大層に話すのだ。
「主に、特に関心がお有りですか?」
「ええ、とても」
「是非これから教会にいらっしゃいませんか、カトリックの池袋フランシスコ教会と言うのですが…」
「ええ…こいつはちょっと頭に難が有りますが、こいつも良いですか?」
「はい、主は全ての方を愛されます、是非その方も」
少なくとも、向こう数時間は屋根の下、良い環境に居れそうだ。
事が終わったら、適当にはぐらかして教会から出れば良い。
-
あの趣味の悪いミニバンに乗り、一度「イエスの愛協会」の本部に向かった。
この車は愛協会の物で、教会の物ではない。
まるで古びた消防署の様なその本部のガレージに車が入った。
周りは、東京の中心に近いと言うのに高層建築が余り無い。
本部の出迎えの様な連中に、小西は何か面倒な事を喋っている。
「このお二人は、主の愛を感じられ…」
何て偽善的な言い方だろう。
その主の愛など、これっぽちも感じていないのに。
が、また心に浮かんだ偽善と言う言葉に、酒井は自らを思い出した。
自分だって、遠藤の保護者の様に振舞っている。
病院に戻せば虐待されかねないとは言え、自分のやっている事は偽善と言われても仕方なく、
そして違法行為に違いないのだ。
小西はまだ喋っている。
「それで、私は二時からのミサに参加してもらいたいと…」
「今度の日曜の、日曜学校にお誘いされては…」
本部の者も面倒な事を言う。
遠藤が、あくびをしたが、彼らは気付かない様だった。
—— ◇ ——
長らく待たされ、今度は教会所有のバンで池袋フランシスコ教会に向かう。
このバンが古くて、道中嫌な音を出す。
もしかしたら運転手の小西にも問題があるかも知れない。
「小西さん…小西さん」
「はい」
「その教会は池袋駅からどれ位ですか」
「徒歩十五分も掛かりません」
それなりの距離と言えるだろうか。
とにかく、池袋駅周辺の小渋滞に巻き込まれながら、どうにか教会に到着した。
教会はそれなりに大きくて、十字架や飾りつけを取れば、
大き目の地域集会所としても良さそうだった。
正面から見ると、四角い一階に、小さい三角錐の様な二階が乗っている感じだ。
「改築してから二十年になるでしょうか、ほら、スロープもあります」
「ああ…それは凄い」
何故小西はスロープに拘るのか。
「見てください、このスロープは、足の不自由な方やお年寄りの為に設置したんです」
「はあ」
「上りやすいでしょう!」
「なるほど、確かに」
相当勾配のないスロープだった。
確かに楽だろうが、ノロノロ行けば階段の十倍の時間は掛かろう。
正面の自動ドアを抜け、中の主聖堂に入った。
「静かな雰囲気を壊さないようにお願います」
とは言ったって、外人の神父が壇の上に立っては居るが、
聞く方の者が全く居なさそうだった。
神父の変な声の他は、自分の足音以外何も聞こえない。
「イエス〜は、パリサイ人の律〜法学者に〜向かって〜」
変なトーンで話す外人の神父。
つまり相手が居ると言う事だが…
「あ…」
遠藤が何かを見つけた。
「あの人」
「どうした…あ」
中ほどの列に、この前電車の中で助けたお婆さんが座っていた。
(続)
-
第十話「男への祈り」
小西が酒井達の顔を覗きこむ。
「どうかなさいましたか」
「いや…知り合いが」
あの老婆に、教会でまた会うとは。
声を掛けたい衝動に駆られたが、踏みとどまった。
お婆さんは、一人、神父よりも向こうの十字架のイエスを見つめている。
「…今はあのお婆さんの時間だ、後にしよう」
「はい、兄さん」
二人は次に個人礼拝室に通された。
個人と言っても、一人で入るにしては広いから、三人で入れた。
床は地の様に赤いカーペットで、他の五面は白壁。
ここにも、十字架に掛けられたイエスが居る。
「私達は、この方が居るから生きられるのです」
小西の言葉が、今度は少し響いた。
あのお婆さんの姿勢がそうなのだろうか。
「この方は全ての人の荷を軽くしました…我々も同じ事をしたいのです」
その荷を軽くする為の事が、例えば炊き出しであり、あのスロープであり、
そして小西は気付いていないだろうが、風雨を凌いでお茶でも飲むつもりで来た自分達なのだ。
丁度、部屋の時計が一時半を指した。
「おや、終わる時間ですよ…あのお婆さんとお知り合いでしたら、お会いになりますか?」
酒井よりも先に遠藤が返事をした。
「はい!」
—— ◇ ——
主聖堂の一角に、酒井と遠藤が待たされた。
小西が、帰ろうと準備していたらしい老婆に話しかける。
「箱崎さん、あちらの方が…」
「まあ…」
老婆が酒井達と向かい合うのを見届けてから、神父達は引き上げた。
「この前は…何とお礼をすれば良いか…」
「いや、お婆さん、良いんですよ」
「そう、良いんです…良いんです」
遠藤が繰り返すのを老婆は涙ぐんで見ている。
「聞いて良いのか…お婆さんは、名前は何と言われるのか、信徒の方ですか」
「箱崎初江と言います…洗礼は受けてません、でも祈りに来ます」
酒井と遠藤は顔を見合わせた。
「何を祈られるんです?」
酒井はそう言ってから、一寸後悔した。
相手に踏み込み過ぎているかも知れない。
だが、箱崎初江は顔色を変えずに応えてくれた。
「夫の為に…」
「…お亡くなりになられたんですか」
「いえ、生きています」
「何か病気でも」
「そうでもありませんが…強いて言えば、心が傷付いているかも知れません」
酒井と遠藤はまた顔を見合わせた。
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小西がおぼんにお茶を乗せて持ってきた。
「どうも」
「いや」
帰り際に余計な事を言うのも彼の仕事か。
「二時からのミサにも是非参加して下さい」
初江は、小西が去るのを見届けてから、再び話し始めた。
「私の夫は…戦争の影を追い続けています」
さっきの、池袋駅前で見た様な右翼の姿が頭を過ぎった。
「それはどう言う…」
「私の夫は…大東亜戦争ではニューギニアに居たのです」
しかしどうやらあの右翼ではないらしい。
酒井は、ニューギニアがどんな場所なのかは大体見当が付いていた。
脳内に広げられた地図を見れば、オーストラリアの直ぐ上にあり、熱帯のジャングルが
広がっている様な島の筈だ。
「そこで、夫は壮絶な体験をして…所属部隊の中でただ数人生き残った中で帰って来たのです」
遠藤も深刻な顔をして聞いていた。
「そして、どうしたんです…お婆さん、お爺さんは…どうしたんですか」
「あの人は…今も、昔の出来事を追って、今も…」
お婆さんはそれ以上続けなかった。
「何処に居るんですか、今は」
「…別居してます、近い距離ですが…あの人がそうしてくれと言ったんです」
遠藤には別居の意味が分からなかったらしく、首をかしげていたが、
老婆はまたあのイエス像に向き直った。
「それで、私にはこうして祈る事しか出来んです…あの人がもう悪い事をしない様に」
「悪い事…?」
「…お二人とも、後で私の家に来ませんか…」
「良いですとも、なあ豊」
「はい、はい」
外人の神父が、小西と後何人かの修道士みたいな者を連れて出て来た。
それも、皆、酒井と遠藤が居るのを見ると微笑んでいる。
時計は一時五十五分を指している。
「…教会を出るには格好が付かないな」
—— ◇ ——
「ルカによる福音書の8章を、そして40節から」
酒井と遠藤に、小西が付いて、聖書を捲らせた。
初江は、二人から離れた所で聖書を捲っている。
「ここです、今からロヨラ神父がお読みになります」
「イエスが帰って来られると、群衆は喜んで迎えた。人々は皆、イエスを待っていたからである。」
酒井は、マイケルジャクソンを思い出した。
あれも凄かった。
イエスは聖書の中でヤイロと言う会堂長の娘を奇跡の力で治療した。
初江のすすり泣く声が聞こえる。
夫にもこう言う事が起きないかと考えているのだろうか。
(続)