ワザップ!フォーラム
スレッド内検索
-
網戸もなしに大きく開かれた窓、さながらこの部屋から夜の世界へと繋がる扉のように開かれた窓の枠に腰掛けている少女——アルミナは、祐一と目を合わせて小さく笑っていた。
祐一の言った、「そんな物騒なやつを相手にしてるんだ、死神って」という聞きようによっては気遣いを感じ取れるかもしれない台詞に何か思うところがあったのかもしれないし、はたまた特に何の意味もなかったのかもしれない。
少なくとも、彼女はすぐに目を逸らし、それまで言葉を口に出すことはなかった。
一拍おいてアルミナは窓枠をそっと撫で、それから掴み直すと、祐一に向けて宣言する。
「ということで、わたし、これでお暇しようかと思います」
……ん?
おいとま?
僅かに両者とも黙ったその時、階下から日和が何か喋っている声が聞こえてきた。その声が聞こえたことで即座にお暇という単語を使うような状況であることを想像し、次の瞬間には祐一はもう完全に意味を把握していたが……、あまり若い世代では聞かないワードを聞いて反応が遅れた祐一に、アルミナは、ちらりと窓の外を振り返りつつ繰り返した。
窓の外を振り返った意味も、祐一には分かった。
「霊魂退治を始めようと思いますので、これで失礼しますね」
言うが早いか、アルミナはいきなり窓枠に腰を乗せたまま上半身をのけぞらせる。
……外に。
「ちょっ……」
この酸化アルミニウム色髪少女は、時々さらっとこっちがドキッとするようなことをする。相手がそれなりの意味を持ってやっていることだとは分かっていても、それでもつい反射で危ないと叫んでしまいそうになる祐一。
心配を余所に、アルミナは外にのけぞらせていた上半身を、ぐいーん……とおきあがりこぼしのように元へ戻した。
窓の外へ背中から倒れていっても落ちないほどの、かなりのバランス感覚を有しているらしい。
そして体勢を戻したアルミナの手には、一足のブーツがあった。彼女が履いていた靴で、家に上がらせる際に脱がせて屋根の上に置いておくよう言いつけたものだ。
このままピーターパンよろしく窓から外へ飛び出していくのかと思いきや、アルミナはブーツを両手で抱え、もじもじした様子を見せた。未練でもありそうな感じである。
「……なんだよ。何か言いたいことがあるの?」
「……はい。……あの、短い間でしたけど、一緒にいてくれてありがとうございました。楽しかったです。……それで……えっと、——3日後くらいにまた来てもいいですか?」
「…………」
おそらくは勇気を振り絞って言ってみた言葉なのだろうが、思いっきり祐一の眉が寄った。
フフーン! このボクが! 世界で一番! カワイイってことなんですよ! -
「あぁ……」
「あっ、あっ、あのっ! ふてぶてしいことを言っているのは分かっているんです!」
祐一の眉が寄ったのを見て、アルミナは慌てたように付け加えた。
あせあせと振る手の動きでブーツが室内に吹っ飛ぶ。
「いっ……5日後、いえ1週間後、あの、ちょっとだけでいいですから、わたしの話し相手になってもらえませんか!」
「いや……あのさ」
必死な気持ちが手に取るように分かる彼女の言動に、祐一はちょっと困って椅子を揺らした。
彼が眉を寄せたのは、アルミナのお願いがふてぶてしいと思ったからではなくて。
「3日後って……それまで、どこで寝るんだよ」
「はっ?」
終始焦って祐一から目を離さなかったアルミナだが、今の祐一の言葉を聞いて思わず場違いな声を上げ、意外だという風に目をぱちくりした。まあ、祐一からすれば、アルミナのどうも自分の行動を無礼なものだと勘違いしている節があることからくる慌てぶりの方がずっと変だ。
それから少し、原因は何であれ、アルミナは落ち着きを取り戻す。
「ええと……わたしは寝る必要がないですから、寝ませんよ?」
「あ」
そういえば、彼女はそのようなことを言って、昨日の夜はずっと本棚を漁っていたのだった。
ちょっと考えれば思い出して分かりそうなものを忘れていたなんて、祐一も人のことをどうのこうのと言えない……。
「眠くならないし、睡眠の必要もないので……。休むときは大体、誰かの家の屋根の上にいますけど」
「……ん? ってことは、風呂に入ったり歯磨きをしたりもしないってことか……」
「まあ、はい」
「汚っ!」
思わず祐一が叫ぶと、アルミナの目はたちまち燃え上がった。それは、姿がとりあえず女の子である以上、絶対に言われたくない言葉だったのかもしれない。
というかまあ、祐一でも言われれば凹む。
「汚いって言わないでください! 汚くありません! 言ったでしょう、わたしは人間じゃないんですから食事も睡眠もお風呂も排泄も必要ないんですっ! 生まれてこの方汗だってかいたことありませんよ!」
「……ほんとかなぁ」
「まだ疑っているんですか!? わたしは『死神』なんです!」
声を大にして叫ぶアルミナ。しかし、祐一としては、やはり自分が生きていく為に必ずしなくてはいけないようなことを、しなくても大丈夫だなどと口で主張されるだけでは、どうにもはいそうですかと信じることができないのである。
歯軋りでもしそうなほど悔しげに祐一を睨みつけていたアルミナだが、ふと、何かを諦めたように瞳の色を暗く沈ませると、次には機械的な表情に切り替え、窓を離れてつかつかと祐一の元へと歩み寄ってきた。
ところで、何でもいいが、部屋の中に吹っ飛ばしたブーツを早く拾ってくれないだろうか。
片方なんかベッドの上だぜ、おい。
目を怒らせた少女を前に、そんな平和なことを思っていたのがいけなかったのか、祐一の眼前までやってきたアルミナは、平淡にとんでもないことを口走ったのだった。
「ひとつご提案があります」
「?」
「霊魂退治に、あなたもついてきてくれませんか?」
フフーン! このボクが! 世界で一番! カワイイってことなんですよ! -
#6
夜の住宅地には風はなく、静かである。
よくよく感じてみれば、虫の声もほとんど聞こえない。人が暮らしやすいように設計された、緑の少なすぎる住宅地では、聞こえてくるのは人の生活音だけだった。
夕飯時という時間帯のせいもあってか、道路に人気はない。
道路を歩いているのは祐一、ただ1人だけ。
「……」
……正確に言えば、1人と、人間の数え方をしてもいいのか分からないのがもう1人、いる。
だが、そのもう1人はどちらにしても道路は歩いていなかった。
もう1人は、屋根の上を飛び歩いているのである。
それはもう、そこが歩き慣れた道であるかのように軽々と。
屋根から屋根へ飛び移る度に、彼女のさらりとした不思議な色の銀髪が、月明かりでキラキラと光る。
「……おい」
「はい?」
空を見上げるような形で祐一が呼びかけると、屋根飛び少女は彼の少しだけ先に建つ家の屋根に器用に片足着地し、そのままその足を軸足にふわりと回転してみせた。
「ごめんなさい、少し速すぎたでしょうか」
「いや大丈夫、ペースはどうでもいいんだ。それよりアルミナ、君にとても言いたいことがあって」
「どうぞ、何ですか?」
「道を歩け」
言いながら、祐一は人差し指を自分が立っている道路へ、下に向けて突きつけた。
だがアルミナは腰に手を当て、悪戯っ子のような楽しげな目でぐっと上半身を前に突きだした。あっかんべーがオプションでついていてもおかしくない動作である。
よくもそのような不安定な格好をして、屋根から転げ落ちないものだが。
「お断りします。わたしに道を歩けだなんて、ふくろうに地面を歩けと言うようなものですよ」
「今のお前は、それじゃさしずめ猫だろ」
「猫ですか、いいですね。死神とは相性の良さそうな動物です」
祐一は皮肉で言ったつもりだったのに、受け取った側のアルミナは感心したように頷いた。
良さそうなって何で個人的な予想の域を出ない言い方なんだよ、と彼は思った。
実際に良いわけじゃないのか。
「何にしても、わたしは屋根からは降りませんよ。いつ人間が歩いてくるか分かりませんから。わたしは全く変装していませんし、もし誰かとばったり会ったとき、地上では咄嗟に隠れられないじゃないですか」
屋根の縁から祐一の方へ身を乗り出すようにし、滔々と理由を話すアルミナ。
屋根の上にいるところを万が一にでも見つかった方が、よっぽど対応に困るんじゃないかという常識的な考えは、彼女の思考の範疇にはどうやら無いようだ。
それに、確かにアルミナは第一印象が「変な人」となるくらいには変な姿格好をしているが、それでも「変な人」で止まるレベルだ。別に人間に見つかったって怪しまれるほどではないと思うのだが、
(……それが今まで過ごしてきた死神の習性なのかな?)
のんびりと、祐一はそんなことを思った。
祐一の家にも二階の窓から入ってきたし。
そうすれば、初めて祐一がアルミナの姿を見たとき、彼女が空から降ってきたことにも説明がつく。
またあるいは、何とかと煙は高いところが好きと言うように、彼女が単に高所好きなだけなのかもしれない。
フフーン! このボクが! 世界で一番! カワイイってことなんですよ! -
霊魂退治についてきてほしい。
今回の急な外出は、そんなことをアルミナに依頼……というより強制権のある感じでお願いされたことから始まった。
いつもなら夕食の時間帯なのに、祐一がアルミナと共に夜道を歩いている理由はそのことにある。祐一は、いつの間にか帰ってきていた共働きの両親(と妹)を「ちょっと急用で出かけてくるから夕飯先に食べてて」と説得し、家を抜け出してきているのだった。
どうせまたロクな用事じゃないだろ、変人の兄ちゃんのことだから。
そんな風に考えているのが顔を見ただけで丸わかりの日和に見送られて出てきたが、祐一としては妹を褒めてあげたいくらい、彼女の考えていることはその通りで、出来た急用はロクな用事ではない。
ロクでもないというか、常識的ではない。
その急用というのは、アルミナの霊魂退治に付き合うことである。
口だけじゃどうしても信用できないなら、もう一度、霊魂退治の様子を見て、自分が死神であることを信じてほしい、と彼はアルミナに懇願されたのだ。
決して誇大表現ではなく、懇願。
目を怒らせていたはずのアルミナが、その時は一瞬にして真摯な目になった。
祐一の方も、死神なんて存在を信じるかどうか、割り切れない思いをもやもやずっと抱いているよりは、早めに白黒つけられた方が嬉しい。
再びあの不気味な黒いモノを目にするかもしれないのは正直不安ではあったが、それよりも、彼の中ではついていって確かめたいという気持ちも大きく渦巻いていたから、考えを巡らせるまでもなく彼はお願いに乗ったのだった。
「……よっと」
小さな声にふと横斜め上を見ると、屋根の縁ギリギリで、サーカスの綱渡りの人がやるように両手を広げて歩いているアルミナの姿があった。
彼女は彼女で、自分の願望のために祐一をわざわざ危険な場所につれていこうとすることに、とてつもない罪悪感を感じているようで、祐一はもう十回は謝られた。
何の意味もなく屋根の端を歩いているのは、気を紛らわせるためかもしれない。
そんなに人間を危険に巻き込むのが申し訳ないと思うなら、自分で言い出さなければいいのに……。
と言ってしまうのは意地悪だとは分かっているが、そんな二律背反だった。
「……アルミナ」
「はい、何ですか」
遠慮がちに祐一が声をかけると、屋根の端をすたすたと進んでいたアルミナは、そんな足場の悪い位置で綺麗に彼の方へ振り返る。
足下の確認なんてしていないのに、足を踏み外して落っこちそうになることもない。
「言っておくけど」
「はい」
祐一は、もしかしたら気を紛らわせていたのかもしれないアルミナに、きっぱりと宣言した。
「こうやってお前についてきたのは、俺の勝手だから」
「……」
「どんな目に遭ったって自業自得なんだから、自分が危険な場所に引っ張り込んだとか思うなよ」
「……はい」
それは気休めではなく、間違いなく彼の本音。
ありがとうございます、とでも言うように、アルミナは目を伏せた。
フフーン! このボクが! 世界で一番! カワイイってことなんですよ! -
「ところでさ」
からりと話を変える調子になって、祐一は、爪先でこつこつと地面を叩いた。
虫の鳴かない静かな夜ではその音は妙によく聞こえ、目を伏せていたアルミナは顔を上げた。
祐一はアルミナを見上げて訊ねる。
「俺らはどこに向かってるの?」
彼は、どこに行くかなど全く知らないまま、アルミナの後をついてきていた。
別にアルミナが意地悪で教えてくれなかったわけじゃなく、ただ単にどちらも向かう先の話を持ち出さなかっただけで、今ふと祐一が思い浮かべて聞いただけなのだが、そんな質問をされたアルミナは片手を上げて迷いなく前方を指した。
彼女は答える。
「あっちです」
「いやそれは分かってるよ」
この状況で目指す方向は後ろですとか言ったらびっくりだろう。
「そうじゃなくて、具体的な意味で」
「具体的ですか」
祐一の注文を受けたアルミナは、わざとらしく、くまのプーさんが考え込む仕草と同じ動作をした。
わざとらしくする余裕がある。
これは、ちょっといつもの調子に戻ったかな。
いつもと言ったって、お互いに『いつも』の状態を語れるほど親しいわけでもないのだが、彼の知っているアルミナは、やけに大仰なリアクションが多かった。
祐一が密かにアルミナの考える様子を眺めていたのも束の間、彼女はぴんと張った指で再び前方を指さす。
「この地点から計算すると、直線で目的地までの方向を表すとするなら、大雑把に方角は東、東西線を基準にして北へ約20度ずれた場所ですから、言うなれば東北東の……」
「そういう具体性は要求してねえよ!」
お前の頭の中にはGPS機能でも入っているのか。
屋根の上のアルミナに打撃を食らわせる勢いで突っ込んだら、「じゃあ何だっていうんですか」と不機嫌にぼやいてアルミナは腕を組んでしまった。
しっかしよく不機嫌になるやつである。
棚岡と属性が似ているのかもしれない。
最も、アルミナの場合は沸点の低そうな棚岡とは違い、喜怒哀楽が激しいだけなんだろうけれど。
「そうじゃなくてさ、場所の名前……っていうのかな、公園とか林とか」
アルミナにジト目で見られて、言い訳をしているような気分になりつつ説明すると、聞き終えたアルミナはいっそ清々しいほどに言い切った。
「そういうことは分かりません」
「え?」
「わたしの、というか死神の、霊魂サーチ能力とでも言いますか」
言いながら、アルミナは自分の頭のてっぺんに手を乗せる。
「それって、あの辺りにどれくらいの存在の大きさの霊魂がいるなってことが何となく分かるものなんです。
……あなたたち人間にとっての呼吸と同じように当たり前のことなので説明が難しいですが、方向と距離と危険度が大まかに把握できます。範囲が広域のダウジングマシンのように。言っていること、分かります?」
「多少は」
「話が通じる人で助かります。それで、どの辺りを目指すかは分かったとしても、あくまでそれは感覚でしかないので、地図の情報はありません。わたしはこの辺りの地理を頭に入れているわけではありませんし、そこに行ってみるまで、そこに何があるかは分からないんです」
長々と解説をしたアルミナは、喋り終えてから一息置いて、悪戯っぽくにっこりした。
「つまり、行った先、霊魂のいる場所が人の家の中ということも充分にあり得るんですよ?」
「……それは」
退治するためには泥棒よろしく忍び込むってことか、と思い至り、祐一は今回がそのケースではありませんようにと切に願った。
フフーン! このボクが! 世界で一番! カワイイってことなんですよ! -
……さて、彼の切なる願いは今日これから退治されんとしている霊魂に届いたようで、祐一とアルミナが辿り着いたのは、民家とは見事にかけ離れた、大きな土手に挟まれた幅の広い川だった。
つい先程の昼過ぎ以上夕方未満の時間に、祐一と到達が沿って歩いて帰ってきた川だ。
「ここかよ……」
「……水辺。流れ。三途の川。……霊魂が集まるには格好の場所ですね」
人工の盛って作られた堤防とは違い、二人が立っている土手の部分は、住宅地や道路とさして高さが変わらない。そこから、河原へ向けて緩やかな傾斜の下り坂になっている。
この川は滅多に増水することもないので、道路でボール遊びをしていて誤って川の方向にボールを飛ばしてしまうとそのまま川に落ちてしまうといったことくらいしか、堤防の高さが無いことに関する問題もない。
余計な手を加えられることなく、祐一が小さい頃から同じ姿を保ってきた。
祐一は川の方へ見晴らしのいい土手の上から、何となく川の方を見下ろして辺りを見回してみた。
雑草の茂った土手の坂と、細かい石が砂利となって敷き詰められた河原。
夏ともなれば、ここは生き物の宝庫のはずなのに——今はただひたすら静かだった。
……異質だ。
明らかに……静かすぎる。
それでも、祐一が河原に下りようと一歩踏み出そうとしたとき。
「待ってください」
腕全体を使うようにして、アルミナが彼を止めた。
祐一は急に足を止めたせいで、いくら緩やかとはいえ斜面を滑り落ちそうになる。
彼が振り向くのを待って、アルミナは切り出した。
「始める前に、あなたにお渡ししておきたい」
「何を?」
「これです」
アルミナは、腰に手をやって、そこに提げていた短剣を胸の高さまで持ち上げる。
いつも不思議と意識の外にある、濃い色の鞘に包まれた小型の短剣。
「受け取ってください」
決して力強い言い方ではなかったが、アルミナは有無を言わせず短剣を突き出し、押されるように手を出した祐一の手にそれを渡した。
「何これ?」
「短剣です」
「だからそれは分かってます。そうじゃなくて」
「これはわたしの武器です」
アルミナは自身の武器を手放すことに全く執着を見せず、そう言った。
「刃はありません。その短剣で切れるものはありません。それは霊魂をあの世送りにするツールです」
祐一は、手の中の短剣を見る。
長さは、刃渡り20cm程、柄まで入れると35cm程で、一般的な包丁と同じかそれ以下のサイズしかない。
柄は細く、コイルのような模様で滑り止めが刻まれている。柄は薄い直方体の形をした鍔と繋がっていて、その先の刃は矢印に似た模様が白抜きで描かれた、果てしなく黒に近い濃い藍色の鞘で覆われている。
試しに鞘から短剣を抜いてみると、アルミナの言う通り刃は鈍く、飾りのようにいくつか線が刻まれていた。
フフーン! このボクが! 世界で一番! カワイイってことなんですよ! -
「持っていてください」
一通りどんなものかを確かめてみて、刃を元通りに鞘に収めた祐一が何かを言うより早く、アルミナは先手を打ってそう言った。
この短剣を渡すことに歴とした理由があることを裏付ける、断固とした口調で、だ。
防火シャッターのようにきっぱりしている。
まあ、武器と言うからには、役立つ道具なのだろうし。
記憶を辿ってみれば、アルミナは、祐一が初めて見た例の霊魂と交戦する際にこの短剣を使っていたはず。
しかし彼女は渋ることなくそれを祐一に渡してしまった。
今まさしく、これを俺に預けていいのか? と訊ねようとしていた祐一は、続ける言葉を奪われ、ただアルミナを見るだけだった。
「絶対に手放さないでくださいね。片を付けるまで、絶対ですよ。この短剣はお守りのつもりなんですから」
「お守り?」
「はい。きっとあなたの身を守ると思います」
どうして? と聞くと、ほとんど間髪を入れずにアルミナは答える。
「だって、これは霊魂に効果抜群の短剣ですよ? 霊魂も、自分にとって危機になるものくらい分かります。迂闊にあなたに近付こうとは思わないでしょう」
アルミナは、まだ中途半端に短剣を受け取った体勢で止まっている祐一に気づき、その両手を強引に押しつけてしっかりと短剣を彼に握らせた。
そして、アルミナは、祐一と目を合わせて真剣な表情を作った。
「この短剣を持っていれば、あなたはまず霊魂から手出しを受けないでしょう。……たぶん、受けないと思います。だから、お願いします。繰り返しになりますけど、絶対に手放さないでください。いいですか」
「……分かった」
祐一は頷く。
ここは素直に彼女の親切にお世話になるべきだと彼は感じた。
今でも実感はあまりないが、アルミナの話では、霊魂は人の命を奪おうとするらしい。話を聞いただけ、それに前例も知らない以上、とても危機感の湧く話ではないものの、手出しなんて生々しい言葉やアルミナの念入れぶりを鑑みるに、「そういうこと」なのだろう。
下手をすれば命に関わる。
そんな危ない場所に連れてきたのだ、アルミナが罪悪感に苛まれるのも分かる。
ただ、今回祐一は明らかにお荷物だった。
彼がついてこなければ、彼を守るためにアルミナが短剣を手渡す必要もないのだから。
「……ごめんな。役に立たないのに迷惑かけて」
祐一が少し頭を下げて謝ると、アルミナは狼狽し、慌てて否定するように手を振った。
慌てるあまり、今度はアルミナが坂を滑り落ちそうになる。
「そ、そんなっ、わたしの勝手な我が侭なんですから、謝らないでください。わたしが言い出したんです、謝らないといけないのはわたしの方です。……本当、迷惑をかけているのはわたしの方ですよ」
「……じゃあ、お互い様かな。ところでこの短剣なしで君は大丈夫なの?」
刃物に不慣れなのがよく分かる、慎重すぎる持ち方で短剣を持つ祐一にそう聞かれたアルミナは、慌てていた一瞬が過ぎて今度は不敵な笑みを浮かべた。
全くもってころころころころ表情が変わる。
不敵な笑みのアルミナは、僅かに胸を張って言った。
「もちろんです。わたしを何だと思っているんですか」
「風呂に入らない変な女の子だと思ってるよ」
「蒸し返さないでくださいっ!」
フフーン! このボクが! 世界で一番! カワイイってことなんですよ! -
「冗談だって、冗談」
茶化した瞬間、マリオ系ゲームに登場するパックマンの進化形みたいな凶暴な犬をつい想像してしまう勢いで噛みつかれた祐一は、急いでアルミナの前に手を突き出し、釈明した。
「変は言い過ぎだよな。ごめん、言い直すよ。風呂に入らない女の子だと思っ」
「そんな些細な改善点はどうでもいいんです! やめてくださいわたしのイメージを悪化させないでください!」
頬を赤らめて怒鳴るアルミナ。
お前本当に死神なのかと疑いたくなるような、お年頃の少女を彷彿とさせる反応だった。
この河原には祐一とアルミナの二人しかいないのに、イメージの悪化も何もあるか。
祐一の釈明を大声で封じたアルミナは、疲れたような溜息と共に呟く。
「はぁ、もう……。今ので緊張感が全部削げてしまったじゃないですか。台無しですよ」
「きっかけはそっちじゃないか? わたしを何だと思っているんですかって聞いたじゃん」
「そこで『死神だと思っている』って返してくれることを期待していたのに……」
「いや、だって俺……まだ信じ切れてないし」
何度も言うが、簡単に死神という存在を認められるほど、祐一はオカルトに染まっていない。そういった突飛な妄想が現実になったら嬉しいと思う年頃でもない。
彼女を疑っている、というほどでもないが……。
信じかけているのと、信じ切っているのは、違う。
祐一があくまでも正直に返すと、アルミナは目を見開いた。
「……本当になかなか信じてもらえないんですね。命だって分けてもらったのに」
「……あれは」
祐一は思い返す。
……白状してしまえば、あれは、早くアルミナの相手を終えて家に帰りたいから乗っただけだ。
心の半分以上で彼女が死神だと信じていなかったあのときは、それは確かに命を奪われたらどうしようという躊躇があった反面、この冗談少女にまさか命を取られるわけがないと思っていた自分もいた。
流れに身を任せられる程度にはどうでもよかったのだ。
……まあ、こんなことをアルミナに話すわけにもいかないよなあ。
本気で傷付きそうだし。
あれは、とだけ言っておいて続ける言葉はなしに黙っていると、彼が何も言わないのを確認するように少し間を空けて、アルミナはまた疲れたような溜息と共に呟いた。
「はぁ……。……でも、それでもいいです。今から信じてもらうために、あなたに来て頂いたんですから」
そう言って、アルミナはきちんと祐一へ向き直る。
たった一瞬のことだったが、その時はもう、アルミナの目は、おふざけを挟む余地が一切無い真面目な色へと変わっていた。
月を映した青銀色に。
スイッチは、切り替わった。
「わたしは死神です」
ふっと河原の方へ視線を移し、決して大きくはない、されど厳かな声で言う。
「この身ひとつで霊魂を一掃するのがわたしの仕事です」
祐一へと視線を戻し、最後に一度、微笑んで見せて。
「武器がなくても大丈夫です。つまるところ、わたしの体がハイテク掃除機みたいなものですから」
「…………」
やっぱお前が自分で緊張感を根こそぎ削いでるんじゃないか? と思わせる発言を残し、河原へ続く雑草だらけの下り坂を、アルミナは一歩ずつ堂々と下っていった。
そして。
祐一は見る。
砂利に覆われた河原から、昨夜見たあの黒い影が、雨後の筍のように現れ始めていた。
フフーン! このボクが! 世界で一番! カワイイってことなんですよ! -
#7
……同じ匂い。
冷たい空気、湿った音。楽しい会話を交わしていた空気は、もう既にここにはない。鳥肌が立ち、つい身震いしてしまうような悪寒と言える妙に涼しい空気が辺りを占めている。
白濁とした温泉水が少しずつ湧き出るような、あるいは雨の日に溜まる泥水そのもののような、そんな音を立てながら、黒い人影は河原の石をかき分けるようにして生えてきた。
一体や二体ではない。
それこそ雨後の筍のように、次から次へと、河原の至る所からゾンビのように生え出てくる黒いモノたち。通常の物体同士の干渉など無視して、砂利の隙間から染み出しては伸び上がる。
ざっと見た限りで二十数体はいるだろうか。
初めて見たときとは桁違いの霊魂とやらの量に、祐一の足はそのまま根と化していた。
再び相見える覚悟を決めていても、心は正直だった。恐怖とも、困惑とも、どちらとも言えるのだろう。得体の知れないモンスターが目の前まで迫ってきた心情に、足を動かすことが出来ない。
一介の男子高校生の癖に情けない、と思っても、体を動かすことすら出来ない。
……しかし。
アルミナは、まるで動じることなく、歩みのペースを遅くすることもなくそのまま河原への坂を下っていった。
明らかにこの空気に慣れているといった気配を身に纏い、アルミナは、河原へと降り立つ。
その堂々とした挙動からは、これだけの数の霊魂とやらと対峙しても全く揺るがない自信が垣間見えた。
彼女のブーツが砂利を踏み、乾いて沈んだ音を立てる。
「……」
凄い、と、祐一は思った。
言葉が陳腐でも、それしか浮かばない。
あくまでも場慣れであるのかもしれないが、気味の悪いものが目の前に何体も立っていてなお、物怖じする様子のないアルミナ。あまつさえ、彼女はこれからこの黒いモノたちを退治するのだ。
彼に対して常に敬語を使い、度々からかわれてきたアルミナだが、今の彼女を前にしては、彼も自分の立場の低さを自覚するほかなかった。
遠く、及ばない。
「……」
「……」
「……」
三者三様、お互いに気持ちを整える。
といっても祐一にはできることなどないのだが、こうしてアルミナが用意してくれた安全地帯にいるのに、いつまでも動揺しているわけにはいかない。
アルミナは真っ直ぐに霊魂の群れを見据える。
そして、きっと霊魂たちも——アルミナを、見た。
言葉はなかった。
音もなかった。
「——!」
霊魂たちが、一斉にアルミナへと飛びかかった。
いや、飛びかかったなどという表現では生ぬるいかもしれない。とてつもなく強力な磁石に引き寄せられる鉄入りスライムの如く、とんでもない初速度で一気にアルミナへと襲いかかったのだ。
二十何体もの霊魂が。
「アル——」
反射的に、祐一は一歩足を踏み出していた。名前を全部叫ぶことが出来ない。彼の反応速度がそこまで追いつかない。
反応する暇もなく霊魂たちに一気に襲いかかられたと思われたアルミナだったが。
彼女の名前を言いかけた祐一が次の1コマで見たのは、あの場から遥か上方まで飛び上がったアルミナが後方宙返りをしながら彼のすぐ真横へと降り立った姿だった。
フフーン! このボクが! 世界で一番! カワイイってことなんですよ! -
「迂闊でした」
アルミナは今自分の披露した大バック転などどこ吹く風、全くもってけろっとした口調でそんな風に隣の祐一へと話しかけてきた。
「今日のここの霊魂はちょっとだけイキのいい感じかな、なんて死神レーダーの反応から薄々思っていたんですけど……。まさかこんなに大勢集まっているとは思わなかったです」
祐一は言葉もない。
「命を失っても群れる特性を忘れないとは、実に人間らしいですけど……、ごめんなさい、これだけいると少し手間取るかもしれません」
祐一の返事はない。
アルミナに話しかけられていることはきちんと脳内で処理し終えているが、祐一は言葉を返せない。
何故かと問われれば、アルミナが危なげもなく無事に避けていたことに安心した(のももちろんあるけれど)というだけではなく、……河原に立つ霊魂たちが皆一様にこちらを見上げているから、なのだった。
おそらく、飛び付きを躱したアルミナを探したのだろう。
もちろん目はないから正確にどこを見ているかなど分かるはずもないのだが、明らかに顔と思われる形の部分がこちらを向き、見上げている。
心情としては、カマキリにじっと注目された獲物の気分。
こんな状態で普通の会話が出来るメンタル持ったやつがいるか。
今彼が持っている短剣が功を奏しているのか、さっきのようにすぐさま飛びかかってくるような気配はないものの、ただの人間からしてみれば心臓が縮むような思いである。
……さらりと言ったが、この短剣、実は相当に価値のあるものではないだろうか。
ふと短剣に目を落とした祐一に、霊魂に注目されても平気な顔をしているアルミナは、念を押すようにして切り出してきた。
「ところで、いいですか」
「え……何?」
「今、あなた一歩動きましたよね」
足下を指された。
確かに一歩土手を下りようとする格好で、彼はぴたりと止まっているが。
それがどうしたのかを聞く前に、アルミナは手を翳して、喋ろうとした祐一を遮った。
「動きましたよね?」
微妙に緊迫感の混じり始めた、真面目な声色になっているアルミナの顔を、彼は改めて見る。
「動いたけど……」
「動いちゃダメです」
答えた瞬間にばしりと言われて、祐一は思わず一歩出していた足を急いで引っ込めた。
流石にその動作まで咎めるようなことはなく、アルミナはちらちらと霊魂たちの方を窺いながら、喋る速度をわずかに上げる。
「動いちゃダメです。わたしはあなたを危険な目に遭わせたくないので、お願いします。じっとして、彼らを刺激しないようにしてください。その短剣だって、絶対的なものじゃないんです」
またちらりとアルミナは霊魂たちの方を窺う。
……何を気にしているんだろうか?
疑問を感じたときふと、黒い群れは、僅かに風に靡くように身動きしたように見えた。
「今あなたがここにいるのもかなり危険なんです。わたしは全力であなたを守りますけど、万が一の、不測の事態があるかもしれません。だから動かないようにしてください。お願いです。何があってもです! お願いですからね!」
最後の方はほとんど叫ぶようにして、言うが早いか、アルミナはいきなり二人が立っている土手の上から河原へと飛び降りた。
それと同時に。
まさしく、それと同時に。
霊魂たちの何体かが、短剣を持つ祐一を微妙に避ける軌道で、祐一とアルミナが立っていた土手の上を目指して飛び上がってきていた。
どん! という鈍い音がして、アルミナの1体も逃さない飛び蹴りをもろに食らった霊魂たちは、河原の砂利の上へと叩きつけられる。
散開していた霊魂たちの群れが少し乱れ、砂利が飛んだ。
あと一瞬でも遅れていれば、数体の霊魂たちは土手の上へ到達していただろう。
恐るべきアルミナの反応速度だ。
フフーン! このボクが! 世界で一番! カワイイってことなんですよ! -
そして、アルミナは霊魂を迎撃するだけに留まらなかった。
飛び上がった霊魂たちを叩き落としておきながら、体勢を崩すことなく砂利の上へ勢いよく降り立ったアルミナ。彼女は霊魂たちに休む暇を与えず、着地の勢いそのままに前へ向けて一気に飛び出す。
その足から地面にかけた圧力が強すぎて、河川敷の砂利が大きく抉れ、小規模なクレーターが出来上がった。
狙いは、彼女が着地した場所のすぐ近くにいた適当な一体。
速度を緩めず真正面から激突する。
アルミナの、掌底打ちのごとく突き出した片手が霊魂のど真ん中に命中した瞬間、衝撃を全て受け取った黒い塊はまるで砲弾のような速度で砂利を散らしながら吹っ飛んでいき、川の水面に達したかと思うと、あっという間に水中へと跡形もなく沈み消えてしまった。
それを最後まで見届けることなく、アルミナは後方に跳ねて再び堤防の坂と河原の境目まで戻ってくる。
祐一と霊魂との間に、自分の体で壁を作るように。
この間、わずか3秒にも満たない。
「……」
祐一には、アルミナが何をしたのかが全く見えなかった。
銀色に光った彼女の髪の残像で、辛うじてアルミナが前へ動いたらしきことは分かったが、気が付いたときにはもう霊魂は弾き飛ばされ、アルミナは元の位置へと戻っていた。
目で追いつくだけで至難の業。
ついていくことなど不可能としか言いようがない。
言われた通り、動かずにじっとしていることしか、祐一にはできることがないのだ。
預かった短剣を少しだけ強く握ったとき。
「……先に言っておきますけど」
その時ふと、アルミナは霊魂たちを見回して、語りかけるように言った。
それは今ちょうど霊魂を1体ほど強烈に吹っ飛ばした者が発するにはいささか不似合いな、柔らかすぎる声だと祐一には思えたのだが。
二桁もの数の怪物に取り囲まれてなお、アルミナは緊張した様子を見せず、ゆっくりと言葉を紡ぐ。
「歴とした目的もなくこの世に残っても、あなたたちは幽霊にはなれないんです。命をなくした存在は、この世に存在し得ないもの。あなたたちの安息はこの世にはもうありません。生あるものから命を奪っても決して変わることはありません。霊にならなかった魂は、この世に残るべきでは、ありません」
そこで、アルミナは一旦言葉を切った。
周りに佇む霊魂たちに、説得らしき言葉をせつせつと説いたアルミナだったが、しかし、霊魂たちは無反応だった。はっきりした動作ひとつ返すことなく、僅かに体を揺らしながら、黙って彼女を囲んでいる。
「元は人間だった未練は、分からないでもないですが……、自分の魂を堕としたくはないじゃないですか?」
アルミナは無防備に腰に手を当てて、指を2本立てる。
「選択肢をあげます。自力であの世へ渡ってみるか。それとも、私にあの世へ送られる方がいいか」
二択でも、霊魂たちは何も応えない。
アルミナは、ふうっという軽い溜息を吐いて、心底残念そうに俯く。
「……やっぱり言葉は通じませんね」
そう言って、首を振って顔を上げたアルミナの顔は、祐一の側からでは見ることができなかったが、声はやれやれとばかりに笑っているような雰囲気を湛えていた。
立てていた2本の指をゆっくりと折り曲げると、
「では、不本意かもしれませんが、今からあなたたちを無理矢理あの世送りにします。少しばかり荒技になるのできついでしょうけど、我慢してくださいね」
その言葉で、アルミナの一人語りの幕は下りたのだった。
フフーン! このボクが! 世界で一番! カワイイってことなんですよ! -
……また1体、霊魂が川の水の中へと沈んでいき、その姿を消した。
孤軍奮闘の状況の中、アルミナは、手刀、正面蹴り、肘打ち、果ては回し蹴りから正拳突きなどという技まで駆使して、一人武闘会のように動き回っては霊魂を1体ずつ吹っ飛ばして水中へと沈めていた。
祐一には、触れただけで相手がぶっ飛ばされているように見える。
例え同じ動きをしたところで、人間には絶対に出せるはずがない威力。
その威力を、人の目が追いつかない速度で発揮しているというのだから、ただ事ではない。
霊魂たちの方はというと、魂だけの存在だのと言われておきながら意外と賢いようで、アルミナに近付くと吹っ飛ばされることは早々と察したらしく彼女に攻撃をしかけることはやめたようだったが、逃げる速度もアルミナには敵わなかった。
三々五々の方向に逃げだそうとする霊魂たちを、アルミナは異常なハイスピードで河原に縛り付け、その上で1体ずつ着実に仕留めていく。
これでは霊魂たちが全員あの世送りにされるのも時間の問題だろうと、祐一はアルミナの捌きにただひたすら感心していたのだが——。
そのとき。
触れただけで相手を吹っ飛ばすかのように見える、超能力のような手技……今までと同じように1体の霊魂に向けて振り放っていたアルミナの手が——目的の相手に届かず、外れた。
「……」
あまりに速いものだから、祐一にははっきりと見えたわけではなかった。
だが、さっきであればもう吹っ飛んでいた間合いで、霊魂はアルミナの攻撃を逃れられたように思えた。
相変わらず続いている高速戦闘に、今のはただの勘違いかと思い直した祐一。
否、思い直そうとした祐一だったが……。
「……!」
また外した。
アルミナの、重心を低くした蹴りは、今度も身をかわした霊魂に追いつかず、当たらなかった。
今度は確信を持って言える。
祐一はDS眼力トレーニングで動体視力を鍛えた身であり、今は明らかにアルミナの方が遅かった。
まさか目測を誤ったわけではないだろうし、霊魂の動きについていけないはずもないだろう。
だが、一度気付いてしまうと、同じように続く速すぎる乱戦の中でも、アルミナの手や蹴りが届かない瞬間が、違和感となって祐一の頭に届いてしまう。
これはひょっとして……スタミナ切れ?
ちらりと不安な思いが祐一の頭をよぎる。
スタミナ切れだったら笑ってしまうかもしれないが、今この状況的には笑い事ではない。
そもそも死神にスタミナなんて概念があるのだろうか?
何となく考えて、祐一は唐突に思い出す。
以前、アルミナが言っていたことを。
そういえば。
死神でも疲れることがあるんだ、という彼の言葉に、アルミナは『長くて3日、激しく動き回れば1日足らずで、もらった命のエネルギーを消費してしまいます』というようなことを言っていたのだ。
「…………」
最後にアルミナが充電したのは、祐一が命を分けた、昨日の夜だろう。とすると、今頃で丸一日が経過したことになる。
そして、彼女は今、実に激しく動き回っている真っ最中である。
果たして、アルミナの命のエネルギーとやらは、今、どのくらい残っているのだろう。
急激に不安な思いが膨張していき、祐一は自分の予想が見当違いであることを祈るばかりだったが、そのとき、ずっと高速で動き回っていたアルミナの動きが、ふとぴたりと止まった。
フフーン! このボクが! 世界で一番! カワイイってことなんですよ! -
「……」
河原の真ん中で、無言でぴたりと動くのをやめたアルミナ。
妨げるものがなくなったというのに、この場から逃げだそうとすることをやめ、じっと見定めるようにアルミナの方を向いている、残りの霊魂たち。
自分の予想を肯定するような不吉さを感じて、祐一は気が気ではなかった。
アルミナは軽く肩を上下させながら、残りの霊魂たちの数を確認するかのごとく、左右にちらりと目をやった。
その目には真剣な色が混ざっているのが見て取れる。
そして、その一瞬の休憩から再び攻撃に移ろうと、力を溜めるように腰を落として重心を低くしたアルミナだったのだが——
アルミナが打って出る前に、霊魂たちの方が先に動いた。
腐っても鯛、魂だけになっても人間ということなのか、アルミナが疲れてきた(のかもしれない)ことを見抜く賢さを持っていたようで、霊魂たちはチャンスとばかりにあのとんでもない初速度で多方向から一気にアルミナへと飛びかかった。
「っ!」
声を上げかけ、今度もまた足を踏み出しそうになってしまった祐一だが、アルミナに注意されたことを思い出し、何とか踏み留まる。
アルミナは横へ飛び退き、手を着いて一回転するとすぐさま霊魂に向き合った。
しかし、最初に見せたような大規模な動きをしない以上、アルミナのスタミナは明らかに切れてきた風に思えた。
そうでないなら一旦止まる理由がない。
祐一の悪い予想は、どうやら当たってしまったようだった。
さらに追撃して飛びかかってきた霊魂を、アルミナはブーツの底で正面から蹴り飛ばす。
その威力は変わることなく凄まじかったが、霊魂は川の水面まで飛ばされることなく、途中で河原に降り立った。そして、ゆらりとアルミナの方へ迫る。
霊魂は、もう一桁台の数しか残っていない。
にも関わらず、二十数体はいた最初よりもアルミナは苦労しているように見えた。
飛びかかってくる霊魂を弾き飛ばすアルミナだったが、まるでそれは防戦へと転じたようで……。
目の前に迫った霊魂に、アルミナは真正面から頭突きをぶちかます。
その反動で、彼女の足は一歩後ろへ下がった。
次に迫った霊魂には、体を回すようにしてアッパーカットを放つ。
その反動は大きく、彼女の体は大きく後ろに仰け反って体勢を崩した。
そしてそこへ、霊魂の内の一体が、アルミナに向けて手を伸ばした。
その動作も、祐一には確実に見えたわけではなかった。
素早い乱闘の最中から微かに見えた黒い影に、そうではないかと思っただけだ。
だがそれを感じたことで、彼の中の不安は増大した。
霊魂の黒い手のような部分がアルミナの顔を目指していく。
祐一自身、間近で霊魂に手を伸ばされた経験があり、それを覚えている。
もしその手が自分に届いていたら、どうなっていたのだろう。その時は恐怖を感じる暇もなかったが、今は違う。アルミナは今まで素手で戦っていたのだから、例え霊魂に触れられても平気ではないか? そんな風に考える余裕はない。黒々とした嫌な予感が胸の中を急速に渦巻く。危険信号が頭の中で甲高く鳴り響く。霊魂の伸ばした手が、アルミナのすぐ眼前に迫る——
——MAXまで達していた不安ゲージは、そのとき最頂点をぶち抜いた。
フフーン! このボクが! 世界で一番! カワイイってことなんですよ! -
「アルミナっ!!」
力の限りに叫んで、祐一は、一歩と言わず何歩か足を踏み出していた。
そして何故か、アルミナから預かった短剣を抜いていた。
無意識の内に、戦闘本能でも出てきたのだろうかと、切羽詰まった状況とは裏腹にぼんやりと思う。アルミナも霊魂たちも、一時停止をかけられたかのように祐一を見上げていた。
強力な短剣を持ってはいるが、扱ったことなどないのが一目で分かる素人の持ち方で、挙げ句鞘から抜いただけでその短剣を構えてすらいなかった祐一を、霊魂たちは見定めるように見上げている。
その一瞬は、祐一には変に時が止まっていたみたいに引き延ばされて感じられた。
霊魂たちを刺激するなと、アルミナには言われていた。
となると、声を上げ、足を踏み出し、短剣を鞘から抜くことまでやってのけた時点で、彼には薄ぼんやりと分かっていたのかもしれない。
我に返る隙もなく。
全ての霊魂たちが一斉に、今度は堤防の上の祐一の方へと飛びかかってきた。
「……」
霊魂たちが自分の方へ、あのとんでもない初速度の矛先を向けた瞬間は見えた。
けれど、化け物のスピードには、短剣を構えまで持ち上げるだけの動きすら追いつかない。
追いつけるわけがないのだ。
結果、祐一は、妙に間延びした時間の中でそれでも抗うように短剣を振り上げようとしたのだが、
その刹那。
仰け反る体勢でいたアルミナが、残っていた力を全て振り絞って注ぎ込み、衝撃波が広がり砂利ごと地面がへこむほどの威力で大地を蹴った。
祐一は、自分の手から短剣が抜き取られるのを感じた。音すらその辺に置いていく速度で祐一のすぐ前まで飛んできたアルミナは、祐一が何とか振り上げようとしていた短剣を、するりと優しく抜き取る。
まさしく、瞬のうちに。
そうして、今にも泣きそうな表情で祐一を睨んだアルミナは、彼と目が合ったのも束の間、すぐそこまで迫って来ていた霊魂たちの方へと、身を翻した。
短剣を胸の前に構え、祐一の盾になる形で。
祐一を狙った霊魂たちは、間一髪のところでアルミナの構えた短剣に吸い付けられるように阻まれ、短剣の刃に触れただけで、ことごとく、最初からそこにいやしなかったかのようにあっけなく消えていった。
音も光もなく、飛びかかってきていた全ての霊魂たちが、危ないところで割り込んだアルミナの短剣にその姿をかき消されたのだ。
この一瞬で、河原にいた残りの霊魂たちは全て消え去った。
後に残ったものは、立ち尽くす祐一と、彼の前で短剣を構えるアルミナと、我に返った祐一の耳に届いた……聞き慣れた、夜の虫たちが鳴く声だった。
フフーン! このボクが! 世界で一番! カワイイってことなんですよ! -
#8
「…………」
霊魂たちが消え去り、いつもと同じ、元通りになった空間。
自分がそこに立っていることを認識するまで。
終わった、ということを理解するまで、祐一は少しの間、ぼんやりと突っ立っていた。
あまりにも現実離れした一幕だったからか、またしても幻覚でも見たかのような、あるいは夢から覚めたばかりのような、はっきりしない気分に囚われる。
こうしてアルミナが防いでくれなければ、祐一は命を失っていたかもしれない。
その実感も、ベールのかかった薄ぼんやりとしたものだった。
祐一は、目の前の、彼の盾になる形で立っているアルミナの背中を眺める。
そうして、やっと彼のしっかりした意識が戻ってきた直後、
「…………は、あぁー……」
どこからか力の抜ける溜息が聞こえてきたかと思うと、同時に、祐一の前で微動だにせず立ち構えていたアルミナが膝から崩れ落ちた。
支えを失った操り人形のように、がくりと。
土手の斜面で。
それなりの勾配がある坂で膝を折ったアルミナは、もう踏ん張る力も残っていないようで、そのまま下まで転げ落ちていき——そうになったところを慌てて彼女の前に回り込んだ祐一が抱き止めた。
腕にぐったりとした重さを感じて、祐一はさっきまでの一瞬のぼんやり感など忘れるほどに焦りを覚える。
「お、おい、アルミナ……」
大丈夫か、と思わずゆっさゆっさと揺さぶって問いかけそうになったところで、アルミナの体に再び力が戻った。彼女は膝を地面につけたままながら、祐一の腕をぐいっと押し返し、無理にでも立ち上がろうとする。
案じた祐一に対し、アルミナは顔を上げ、キッと怨みのこもった眼光で彼を睨みつけた。
「馬鹿じゃないですか!?」
「えっ!?」
開口一番、夜の河原に響き渡るどでかい声でいきなり叫ばれ、しかも辛辣に馬鹿呼ばわりされた祐一は、豆鉄砲を食った鳩のような声を上げた。
それに構わず、アルミナは何とか立ち上がろうともがき、しかし疲れのあまり立ち上がることができないまま、祐一を睨めつけて詰る。
「あんなに、念を押したのにっ、どうして、あんなことしたんですか! あんな危ない、一歩間違えたら、取り殺されていたかも、しれないような……っ!」
「ちょっと、息切れすごいんだけど、大丈夫か?」
「うるさいっ! 息切れなんかしていません!」
あからさまに苦しそうな切れ切れの呼吸で言い張るアルミナ。
祐一なりにアルミナの身を心配して聞いたのだが、抵抗とお怒り度は3倍増しになった。
フフーン! このボクが! 世界で一番! カワイイってことなんですよ! -
「もしものことがあったら、どうするつもりだったんですか! あなたにもしものことがあったら、わたしは、どうやって責任を取ればよかったっていうんですか!」
怒っているのか謝っているのか、どっちなのか分からないことをアルミナは叫ぶ。
祐一はそれを宥めようと試みるが、
「あの、俺は」
「もうわたしは死ぬかと思ったんですからね! わたしが! 死神は死にませんけど! 連れ出したのはこっちの方で、勝手なお願いをして、来てもらって、それなのに、わたしのせいであなたの身に何かあるようなことがあったら!」
口を挟む隙がない。
「お、落ち着けよ、俺は何ともないんだから、ほら」
「これが、落ち着いていられますか……」
ところが、運良くアルミナの耳に言葉が届いたのか。
反駁する言葉とは正反対に、彼女は急にクールダウンしたかと思うと、ふっと抵抗する力を抜いた。
何故急に矛が収まったのかが分からない祐一は、一瞬、アルミナがエネルギー切れで事切れたのかと本気で戦慄したが、彼女が静かに肩を上下させているのをすぐに見て取り、ちょっとだけ安心する。
無論、アルミナが疲れているのなら安心している場合ではないのだが、息切れは激しかったものの元気に怒られたことで、祐一の心には自分でも気付かぬうちに自然と安堵が生まれていた。
と、思ったら。
二、三度、息の調子を整えてから、今度は、アルミナは驚くほど小さく沈んだ声を出した。
「……ごめんなさい」
膝をついたままの体勢から立ち上がる努力を続けながら、アルミナは萎れた様子で目を伏せる。
さっきまでの威勢は遙か彼方へ飛んでいってしまったかのような変貌ぶりだった。
人が変わったのかと錯覚するほどの小さな声に、祐一は僅かに戸惑い、何が? ととりあえず聞き返すと、アルミナは細くきっぱりと断言した。
「あなたのせいではないのに」
そう言って、疲れたように首を振るアルミナ。
「全部わたしが悪いんです。わたしの我侭です。……あなたの方は、体、大丈夫ですか? 何ともありませんか?」
「……」
アルミナの急激なテンションの上下は、今はまあ、気にしないでおくとして。
この期に及んで気遣ってくれるのはありがたいのだが、それを今の疲労困憊状態のお前が聞くか。と思いつつ、祐一は答えて言う。
「俺はこの通りピンピンしてるけど……だから、そっちはどうなんだってば。疲れてるんじゃないのか? さっきのも、エネルギー補給をしてなかったから……」
「わたしのことはどうだっていいんです。あなたがここにいるのはわたしのせいなんですから」
「……あのさあ。それについては、最初に俺の勝手だって言ったはずなんだけど」
「……。だからって、それで済む話じゃありません」
強情と言うべきか、責任感が強いと言うべきか、頑なな顔をしてアルミナはぷいとそっぽを向いた。
フフーン! このボクが! 世界で一番! カワイイってことなんですよ! -
「……」
まあ、しかし、だ。
いつまでもそっぽを向いているだけでは間が保たないのだろう。それかよく分からん態度をとられた祐一の困り具合を察してくれたのかもしれない。
程なくして、アルミナはちらっとこちらに視線を投げてよこした。
「……」
「……なんだよ」
「……いえ」
お互いに言いたいことがまとまらない、不思議な気まずさを含んだ空気が流れる。
河原は至って穏やかで、夏の虫が控えめに鳴いている。
ついさっきまで聞こえなかったのに、もうすっかり聞き慣れてしまったようだ。
今自分の周りに広がっているものをもう一度感じ取って、祐一は深く溜息をついた。
その気配で彼を見上げるアルミナ。
「……あのさあ」
「はい」
「……最初に釘刺されたのに、結局迷惑かけることになってごめん」
何と言おうと、アルミナがここまで疲弊しているのは彼のせいでもあるのだろうし。
祐一は静かな声で謝る。
「こっちも危ない目に遭わせたよな」
「そんな、」
謝られてアルミナは慌てて何かを言いかけたが、最後まで言わせずに彼は続けた。
「あとありがとう、また危ないところを助けてもらって」
「それは……当然のことですよ」
その言葉に迷いはない。
とんでもないと反論しかけたところを遮られ、慌てた様子を少し残しながらも、アルミナはさらりと言ってのけた。
だが、決して当然ではないと、祐一は思う。
わざわざ口には出さないけれど。
「……」
また少し経ってから、祐一の腕に体を預けていたアルミナは、少しずつ体を起こしてバランスを取る。
数秒間だけ宙に目線を泳がせて、ふらりと祐一と目を合わせると、アルミナははにかむような小さな笑みを浮かべた。
そして、その表情のままにこっそり呟いた。
「わたしも、助けてもらったようなものですから」
「は?」
「わたしの意には反しますが、あんなことをされたら、死ぬ気で動かないわけにはいきませんからね」
例えですけど、と言い足して、ふうっと息を吐く。
「愚かなり予想外れというか、わたしの方こそ油断していたのかもしれないです。今日くらいの相手なら体も保つだろうと思っていたんですが……慢心でした」
出会ってまもなくではあるが、最初からどうも負けず嫌いの気があるように思われたアルミナにしては素直なことに、至らなかったと白状した。
彼女が川の方を見たのにつられて、祐一もそちらを見る。
黒々とした流れの渦巻く川を見ると、先刻、ゆらゆらと陽炎のようにあちこちに立ち上ってきた霊魂たちの姿が、脳裏に克明に浮かんできた。
それをたった一人で撃破したのが、今彼の腕に支えられているこの変な少女。
「……まあ……」
それはいいとして。
祐一は、アルミナを支えていた両手のうち片方の手をそっと外すと、おもむろにその手を彼女の目の前に差し出した。
フフーン! このボクが! 世界で一番! カワイイってことなんですよ! -
「?」
目の前に差し出された手。
それを見てもアルミナにはピンと来るものが何も無かったらしい。一体どういう意味かとばかりにアルミナは小首を傾げる。
ややあって「何ですか?」と祐一を見上げた彼女の顔が何も分かっていないようなので、祐一は軽くその手を振った。次いで口も開きかけたのだが、すんでの所で言葉に迷う。出会ってすぐの最初の時は渋っていた手前、妙に言い出し辛いなあと躊躇いを感じていると、祐一の様子を見ていたアルミナが先に口を開いた。
「……祐一さん」
「はい?」
彼女の改まった口調、それも初めてされたような気がする名前呼びに、祐一はつい敬語の返事をしてしまい、そんな彼にアルミナの方は小さく笑って言った。
「その手、もしわたしの思った通りの意味で差し出してくれたんだとしたら……、わたしは元気満々ですから、そんな風に気を遣って頂かなくても大丈夫ですよ」
「……」
分かっていないのかと思いきや、しっかり見抜かれていたようだった。
昨日、命のエネルギーと称したものをアルミナに分け与えた(らしいが祐一本人には特に実感が湧かなかった)とき、彼女は祐一に握手を求めてきた。今回はその逆だ。祐一が手を差し出した意味はそういうことだ。
最初はあれだけ抵抗を感じていたというのに、自分でも驚いたことに、見るからに消耗しているアルミナを前にして彼の手は自然に出ていた。
しかし、アルミナはどうも祐一とは考えることが反対のようで、彼の差し出した手の意味に気付いた上で、やんわりとそれを押し止める。大丈夫だと言い張る。
……嘘つけ、と半目になった祐一は——ふいにアルミナを支えていた手を外した。
「わっ!」
途端、いとも呆気なく体が傾いて、そのまま転がり落ちていきそうになるアルミナ。とても力を入れられるようには見えず、崩れる寸前で祐一がまた支える。何とか体勢を保った後、冷や冷やした顔をしたアルミナは怒って叫んだ。
「やめてくださいよ! 急に何するんですか!」
「いや、誰かさんが元気だって言い張るから」
「わたしは元気です!」
「まあ……確かに声はやたら元気になってきたけどさ。あんまり無理言うもんじゃないと思うよ」
そして、祐一はもう一度アルミナの目の前に手を差しのべる。
「ほら……。別に根こそぎ命を取っていくわけじゃないんだろ? だったら一度も二度も、何度だって同じようなことだよ」
我ながら、どの口が言っているんだろう、と祐一は思う。
けれど、自分の心はいつの間にかそういう風に変わっていた。
「……」
アルミナはしばらく黙っていたが、やがてゆっくりと差し出された手を取る。
彼女の手はやはり、ひんやりとして冷たかった。
「……祐一さんは変わった人ですね」
「お前には言われたくないんだけど」
「あなたにばかり頼ってしまうこと……あの、許してください」
「それはこっちも同じだって。せっかく知り合いになったんだから」
土手の斜面に膝を着いて握手のように手を繋いでいる男女が一組、通りすがりの人が見たらさぞかし奇怪に思うだろうなと、少し関係のない方向のことを考えながら祐一が言うと、アルミナは微かな笑みを見せて目を閉じた。
その隙に、彼はもう一つ、言っておく。
「……あと、俺、君が死神だってこととか信じた。全部信じることにするよ。……いつも守ってくれて、友達とか妹の分まで言っておくけど……ありがとうな」
真顔では言えやしない恥ずかしい台詞に、繋いだ手が少しだけ強く握られた。
フフーン! このボクが! 世界で一番! カワイイってことなんですよ! -
#9
一方その頃。
ところ変わって真札目家のダイニングでは、いつもと比べて一人欠けた夕食の最中であった。
最中といっても、もうじき皆は食べ終わり、ごちそうさまは間近に迫っている頃合いでもあったのだが。
「兄ちゃん遅い……」
おかずを全てたいらげて、味噌汁に、箸でくるくると小さな渦を作りながら、隣の空いた席に目をやって日和はふと呟いた。
普段ならこの時間、彼女の兄が座っているはずの隣の席は、今日は箸が並べてあるだけの食卓で本人の姿もない。
彼は非常識にも、これから夕食が始まるよという時間になって、何の用だか知らないが、唐突に「出かけてくる」と言い置いて家を出たのだった。
先に食べてて、と言われたので遠慮なく先に食べ始めたはいいものの、こうも遅いと先に食べ終わってしまう。片付けも遅くなるし、迷惑な兄だ、と日和は思う。
「すぐ帰ってくるって言っていたのにね」
ことり、と茶碗を置いて、母が応える。
多少時間をずらしてでも夕食は一緒に食べることを習慣としている真札目家だが、日和の兄は時々こうして抜けることがあるからか、皆すっかり慣れた顔をしていた。
……とはいえ。
それでも、高校生にもなれば友達と外で夜を済ませてくることもあるわけだから取り立てて珍しい光景ではないということを考えてもそれでも、一人分空いていると物足りない気分になるものだ。
「本当だよ。すぐ帰ってくるって言ったくせに、何してんだか。今日はあとで一緒にマリオカートやろうって約束してたのに」
「まあ……祐一のことだから、そんなに心配することもないでしょう」
「わたしだって心配なんかしてないっつうの」
日和はお椀の中でくるくる回していた箸を引き抜き、少し間を置いて残っていた味噌汁を一気に飲み干す。
「ごちそうさまでした」
「はい、お粗末様でした」
使った食器を重ね、席を立って流しへ持っていく日和。
その背中に、自分ではひそひそ話をしているつもりなのだろうが、母が楽しげに父に耳打ちしている声が届いた。
「ねえ、聞いた? 心配なんかしてないっつうの、ですって。日和ったら本当にお兄ちゃんっ子よねえ」
「…………」
丸聞こえだよ!
……と、日和は内心、箸を振り回して叫んでやりたい衝動に駆られた。
心配してないって言ったんだ、この仮定からどうしてその結論になるんだと心の中で反駁するのだがしかし、そこで反応したら母はもっと楽しそうににこにこした顔で見てくるに決まっている。彼女は我慢して、流しに置いた食器を水に漬ける。
ところが、自制した日和に追い打ちをかけるように、今まで黙っていた父が、
「……そうだな、祐一がいないと日和は静かになるよな」
「…………——」
だったら何なんだよー!
そりゃ兄ちゃんがいないと一緒に騒ぐ人がいないから静かになるかもしれないけど、それはそうだからで、まるで兄ちゃんがいないとわたしの元気がなくなるみたいな言い方すんな!
シンクをどんどん叩いて喚きたい思いを必死で堪える日和。
祐一が今どんな状況にあるのかなど、想像する術もない真札目家の面々は、実に平和なディナータイムを過ごしていた。
フフーン! このボクが! 世界で一番! カワイイってことなんですよ! -
============================================
第1章の後書きです。お話の区切りです。
ここまで来ると暇潰しのレベルをとうに超えてしまったことと思います。
この拙作に時間を潰して頂いて、感謝です。
さて、これにて第1章終了、ということに……なるのかな?
自分でもよく分かりません。
宣言すると、この先のプロットは全く考えてありません。
終了、という言葉が重いこと重いこと……。
区切りがいいので、キャラクター紹介を置いておきます。
http://pictures.sarashi.com/character.html
紹介が必要なほどの人数は出ていませんけれど、思い出しも兼ねて、是非。
============================================
フフーン! このボクが! 世界で一番! カワイイってことなんですよ!